カープダイアリー第8503話「三次で生まれ育ち広陵へ、そしてプロへ、三次プロ野球伝続編Ⅷ」(2024年1月24日)

広島野球の歴史。それは旧制中学から始まった。最初に野球会(部)ができたのは広島中(現国泰寺高)で、明治22年(1889年)頃のことだった。

だが国泰寺高が全国大会に出場したのは1度きり。それも第一次世界最中の1915年、大阪の豊中グラウンドに10校が集まり始まった全国中等学校優勝野球大会(国高等学校野球選手権大会の前身、1948年から学制改革により現行の名称)での話だ。

一方、広島中よりおよそ20年遅れで部ができた広陵中(現広陵高)は大正15年(1926年)の第3回センバツ大会で初の全国制覇を成し遂げ、それからもうすぐ100年になるが、常に強豪校として高校野球界の先頭に立ち、多くのプロ野球選手を輩出している。

しかもその中には明治45年(1912年)生まれの岩本義行さんやカープ黄金期に活躍した原伸次さんら三次出身者が複数いる。

三次から広陵へ、そしてプロへ…その未来の期待の星、が宗山塁ということになる。

宗山塁が広陵に進んだのはもちろんプロを目指してのことだが、三次の町を歩けば、そういう空気があちこちから伝わってきたりもする。馬洗川河川敷で1950年以降、プロ野球公式戦が開催されていたことも影響しただろう。プロにならないまでも大学、社会人で活躍した人材は星の数ほどいるはずだ。

カープナインのシーズンオフイベントも毎年開催されるし、少年野球の募集ポスターもよく貼ってある。

アニメの聖地としても知られる三次町の太歳神社につながる太歳通り。冬の時期でも通りから硬球を金属バットで打つ音が聞こえてくる。それが三次野球の本質、なのかもしれない。

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