カープダイアリー第8453話「”野球がなければ死んでしまう”カープ球団史よりも長い広島野球の歴史継承者、迫田マジック永遠にⅢ」(2023年12月3日)

広島県沿岸部のほぼ中央に位置する竹原市。2000年に82歳で亡くなった大林亘彦監督の映画「時をかける少女」は竹原市本町の街並み保存地区で多くの撮影が行われた。

竹原に映画ツーリズムの風を呼び込んだ名作で、地元の人たちは今もその思い出を大切にしているという。

竹原は平成になって「訪れてみたい日本のアニメ聖地」としても知られるようになった。竹原を主な舞台にしたアニメ「たまゆら」は写真が大好きな女子高生、沢渡 楓(さわたり・ふう)と、彼女を取り巻く人たちの日常を描いた作品。…たまゆら(玉響)は、勾玉(まがたま)同士が触れ合って、たてる微かな音のこと、転じて、ほんのしばらくの間という意味、だ。
 
しかし、県内市町の大半が人口減少に頭を痛める中、竹原もご多分に漏れず空き店舗が目立つ。迫田穆成さんがそんな街の住民になったのは、保護者ら8000人にも及ぶ“監督続投”署名活動も及ばす如水館(竹原に隣接する三原市)に別れを告げてから1カ月後の、2019年4月のことだった。
 
ほどなく竹原高校での監督話が出始めた。6月半ば、初めて竹高グラウンドに足を運んだ迫田穆成さんは、11名しかいない部員の前でこう切り出した。
 
「無死一塁で打球が三遊間へ飛んで、ゲッツーコース…。サードからセカンドへ投げたらセーフになった。どちらが悪い?」
 
ひとりだけ「サード」と答え「セカンドカバーが遅れた」が多数派だった。が、正解は「悪いのはサード」…
 
「野球は思いやりのスポーツ、ボールを持っている側に主導権があるということをまずはよく理解してからプレーして欲しい」「そして大事なことは一生懸命に動くこと」
 
そして、こうつけ加えた。
 
「あすからは自分たちで考えるようにして欲しい」
 
その1カ月後に迫田穆成さんは80歳になり、夏の広島大会終了後には監督になった。と同時に目標は「4、5年で県ベスト4」に据えた。
 
ベスト4とベスト8では、意味合いがまったく異なる。甲子園に行くにはベスト4、でないとダメ。
 
誰が見ても県大会1回戦ボーイだった竹原は、2020年のコロナ禍による「特別な夏」を乗り越え、2022年夏の県大会でベスト16入りを果たした。
 
強さの源は迫田野球に惹かれて集まってきた新たな人材。街の商店街の一角に地元住民の手で「雄光寮」が作られ、広島市内などから選手が集まるようになり「自分たちで考える力」を着実に身に着けたチームの姿は、各ポジションでの構えひとつとっても、以前とは比べ物にならないほどのレベルに達していた。
 
広島商監督時代から再三メディアに「スクイズで…」とか「重盗、奇襲…」とか「迫田マジック」とか書かれてきた迫田穆成さんだが、それは本質ではない。
 
1973年の「怪物江川攻略」と「2ストライクからの決勝スクイズでの夏の甲子園制覇」は語り草だが、その年の佃-達川バッテリーほか3年生部員は10数人しかいなかった。そして、それぞれが訓えに従い自ら考えてプレーする力量を身に着けていた。
 
当時、練習試合でエラーした選手は迫田穆成監督の隣でずっと正座させられていた。狙いはその場でなぜ自分がミスをしたかを考えるため、だった。
 
だから最後に投げかけられる言葉は「なぜか、自分で気が付いたか?」だった。
 
広島商時代の迫田穆成さんは練習中にグラウンドに姿を見せないこともあった。嘘か本当かは確認できていないが、練習中にOBと雀卓を囲んでいた、という話もある。
 
考える野球は「上級生が下級生を指導すること」でより深みを増す。だから迫田穆成さんは竹原”移住“後も公式戦で下級生起用のタイミングに拘った。
 
監督就任4年目、今夏の広島大会、7月14日のエブリィ福山市民球場。初めて古巣・如水館との対戦となった2回戦は1対8で完敗した。序盤3回で1対3。さらに5点差を追いかける五回、一死満塁のチャンスで四番がホームゲッツーに倒れた。対する如水館、県外からの選手が多数を占める打線は強力で四番がホームランをかっ飛ばした。
 
ただ、竹原のスタメン9人中7人は2年生、残るふたりは1年生だった。
 
それから2カ月半が経ち、竹原は秋季中国大会と同じ時期に開催された南部地区1年生大会トーナメントで優勝した。10月28日の話だ。
 
この大会前に体調不良を感じていた迫田穆成さんはベンチには入らず、天野耕平副部長が指揮を執った。
 
「今大会は呉港さん、市立呉さんが参加されておられないので、優勝と言っても…、ただ4試合で失点は1、1、0、2ですからそこは選手がよくやってくれたと思います」
 
迫田穆成さんはおそらく竹原史上最強の1年生たちに手ごたえを感じていたはずだ。
 
だが迫田穆成さんは、竹原での“大勝負”となるはずの5回目の夏を迎えることはなかった。
 
この日、竹原市内の長善寺であった通夜には数えきれないほどの教え子たちや関係者が焼香のために集まってきた。周囲の遊休地や学校のグラウンドは車でいっぱいになった。
 
受付そばの広場で整列した竹高ナインは制服姿で無言のまま、微動だにせず夕暮れの中の弔問客を見つめていた。
 
迫田穆成さんの「もう一度甲子園へ」の夢はたまゆら、で終わるのか?
 
4年半の間に竹原の街に新たな風が吹くようになり、学校関係者、父兄、自治体関係者らはその思いに同調して自ら汗をかいてきた。
 
何かひたむきに向き合うものを自分たちで創造していくことで新たな世界、新たな価値が見えてくる。
 
街並み保存の街、映画の街、アニメの街。様々な表情を見せる「安芸の小京都」に響く打球音や選手たちの大きな声。
 
自分たちで考える力を大事にする竹原ナインは来夏の広島大会で、迫田穆成さんとともにグラウンドに立つ。「野球は思いやりのスポーツ」の言葉を胸に刻んで…

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