カープダイアリー第8442話「天福球場で鍛える日々は矢の如し…日南秋季キャンプは来年”キング新井”の年齢になる末包一本締め」(2023年11月21日)

朝から強い陽射しの天福球場。11月6日から始まった秋季キャンプ最終日は、午前10時からの打撃ローテのあと恒例のロングイティ。全メニューが終わると投手陣やコーチ、スタッフ、関係者全員の大きな輪ができて、その真ん中で末包があいさつした。

「お疲れ様でした。まず始めに今回のキャンプをさせていただいた日南市、日南協力会のみなさま、そしてアルバイトのみなさま、本当にありがとうございました」

「そして選手、監督、スタッフ、球団関係者のみなさま、1年間お疲れ様でした」

「今シーズンは2位という成績で終わりましたが、目標にしていた優勝、日本一を取ることができませんでした。来シーズンに向けて、この若手主体で鍛えた秋季キャンプのメンバーの中から、ひとりでも多くの一軍選手が出るよう、全員で切磋琢磨してチーム力の底上げをして、来季リーグ優勝、そして日本一を目指して全員で、家族一丸でがんばっていきましょう!」

「最後、一本締めで終わりたいと思います」

「来シーズンの!優勝に向けて、よーお!」

パン!

南国の太陽に照らされた選手の表情には充実感が漂っていた。今キャンプ最年長30歳の岡田はただひとり、ブルペンで投げた。前日の紅白戦登板を受け、最後にチェックしておきたかったのだろう。育成契約にはなるが、マツダスタジアムで再び投げるチャンスは残された。

岡田と同じように「人生」を懸けて臨んだ野手も大勢いる。そこに年齢は関係なし。だが、年長者に残された時間は少ない。それが現実だ。

まだ2年目を終えたばかりだが来年27歳になる中村健人と28歳になる末包は正にそう。「実績」では末包に軍配が上がるが、まだふたりの勝負に決着がついた訳ではないし、末包がファーストに回るケースも想定される。誠也に続いて龍馬も抜ける。球団もそうした流れを想定して同時に社会人からふたりを獲得した。

末包の締めの言葉には、新井監督の思いがよく投影されていた。いきなり指名されて、大事なことを漏らさず持ち込むことは難しい。日頃から意識が高い証拠でもある。伊達に年を重ねてはいない。

今キャンプでは最初に「レポートの提出」があった。特に形式を指定したものではなかったので、選手は重い思いの形で自分の課題や伸ばしていきたい項目を文字に落として提出した。

この手の自己啓発活動はサンフレッチェ広島がクラブ誕生前後から続けてきた。書くためにはまとめる力も必要だ。さらに自身のレポートを元に課題に人前で発表して、自分の考えを伝える能力も養ってきた。日本代表の森保一監督の振舞いを見れば、誰もが納得するはずに違いない。サンフレ一期生の代表格だ。

今時の学生は新聞を読まないしあまり筆記用具を手にしない。「レポート提出」と言われても5,6行書いて(スマホで手打ちして)「はい、一丁上がり」というレベルの大学生もいる。

高校時代から“野球ノート”を克明につけている者もいれば、書くことには無頓着な者もいる。今回も「中にはカープカレンダーの切れ端の裏紙に書いてきた奴もいた」(コーチ陣)という。

だが、形はどうであれ、自分自身がどういう状況でどういうプレースタイルで生きて行こうとしているのか、を明確化する今回の手法にはメリットは多々有れど、マイナス面は何もない。

レポート作成は藤井ヘッド発案によるが、黒田球団アドバイザーも含めたスタッフにとってもより明確な目標の共有化が可能になった。こうしたレポート提出や面談は今後、さらに深化されていくはずだ。

そのおかげで長谷部が腕を下げたり、久保が内外野を守ったり、と誰の目にもよく分かる話以外のところでも、一軍の舞台で安定した結果を残すためにはどこをどう磨けばいいのか、野手、投手とも明確な意図を持って課題に取り組むことができた。

選手全員の頑張りを評価して「100点満点」を出した新井監督自身は、龍馬なきあとの打線の再構築や先発、中継ぎ、抑えの再点検など多くの宿題を抱えたままオフに入ることになる。

だからこそ、日南で鍛えた面々には「もう来季は始まっている!」とオフの過ごし方について注文をつけた。2月1日、一、二軍それぞれのキャンプで集まった時に「いったい何をしてたんだ!」となることだけは避けたいし、そうなれば選手寿命がいっぺんに縮まってしまう。

直近では薮田。入団3年目の2017年に15勝を挙げてリーグ連覇に貢献しながら18年2月の日南では最初のフリー打撃登板のあと緒方監督から厳しく叱責された。

けっきょくその後の6年間でわずか4勝。オーナー枠の特別待遇で、先発と中継ぎを何度も言ったり来たりした挙句、ついに戦力外となった。

早や生まれの新井監督が「四番失格」の烙印をはね返して「キング新井」になったのは28歳の時。薮田は31歳までの猶予期間をムダにした。一方、2月の日南でメディアが頻繁に取り上げたのに、二軍戦で結果が出ないまま22歳で戦力外となった木下のようなケースもある。

1962年開場の天福球場はこの先もずっと存在するが、そこで選手としてプレーできる時間は限られている。赤いヘルメットや帽子をかぶり、ファンの声援を背に、鍛えて“もらえる”時間は…永遠ではない。

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