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適者生存とは弱者切り捨てなのか?

人間界は生物界の延長だから、生存競争とは食うか食われるかです。

社会で言えば、合格ライン、足切りと言う事になる。

万人は平等であるべきだが、学歴や年収で差別化を計り、優越感に浸り、劣等感を抱く者たちを見下す事になる。

SNS言論人とはエリート意識の塊で、自分を馬鹿だと思ってない。という事は、彼らにとって何十万人の視聴者は見下すに値する人たちに違いない。

出世競争も受験競争も他人を蹴落とすという性格が見え隠れする。

つまり、弱者切り捨て論を秘めている。
自分は頭がいい。
それは言い換えれば、他人を頭が悪いと内心思っている証拠である。

生存競争には弱者救済を建前にしつつも、「弱者切り捨て思考」が隠されている。
勝者が敗者を裁くのである。

生存競争からリスペクトし合える社会へ。
それは殺し合いから倫理道徳社会への移行を意味する。

人類はまだ殺し合い優先である。
だから弱者救済より弱者切り捨て論が「強者と勝者の論理」として採用される。
だがそれでは弱者や大衆は釈然としない。

エリート意識とはエゴの一種である。
労働者を見下す資本家に近い。
其処でも愛の欠如が露わになる。

競争社会とは万人不平等社会なのである。
エリートが底辺を見下す社会である。
愛なき社会と言っても良い。

エリート意識という歪なメンタルは人々を幸せにしてくれない。

銃で撃たれるゾンビたちの立場など考えた事もない。

人類とはそもそもエゴなのか?
自分勝手な生き物なのか?
他人をおもんばかる余裕なんてない。
他人を蹴落とすので手一杯である。

彼は「愛」よりも「知」を重んじた。
愛を棄てて知に走った。
故に彼に愛は無いのである。

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