自己肯定感とは寂しい言葉?

 他者肯定によって自分が満たされていれば良いのだけれど、そのようにならず、自分の存在に疑問を抱いていく。

そして、他者から充分な肯定を享受することの出来ずに、自分でなんとかしようと生み出した行為を自己肯定と仮定する。

そうして主体的な活動により自己肯定を得る。

もしくはこちらから他者を介して自己肯定感を得る。

または、それ以外の方法で得る。

といった方法が考え出された。

似たような言葉に承認欲求というものがある。

自己肯定感と承認欲求、どのような違いがあるのだろうか。

そして、自分が欲しているのは、肯定感なのか承認されるという安心や優越感なのか、どちらなのだろう?

感覚的には、他者に依存する割合が多い形で、自己肯定感を得ようとするものを承認欲求と言うのではないだろうか。

そして最終的に承認欲求は、自己肯定感へと帰結していく。が、やはり本質的には同じもののように思う。

それらが何故に必要なのだろうか?

自分という存在を確立する為に必要な要素。
つまり、不確かな自分というものに理由づけをして立証する行為。

先程述べた、主体的な活動により自己肯定を得るというのは、自己成長というもので自己肯定感を生み出す行為だと考えられる。

他者比較ではなく、自己比較によって過去の自分に対して優位であることが自己肯定感を生む。

他者比較はその時を切り取っての比較。
もし自分が優位であれば「こちらから他者を介して自己肯定感を得る」が成立する。

自己比較は、過去の自分との比較。

つまり時間軸を他者と合わせて比較する場合と時間軸を自分の過去と比較する場合とである。

結局のところ、、

必要とされたいのだろうか?
要らない人なのか、要る人なのか、
私はどっちなのだろうか?

例えば、がんばっても誰からも評価されずに寂しい思いをする時ことがあると思う。

しかし、がんばっても誰からも評価されないが、自分の中で、確かに意味を見出せる時もあると思う。

その差異はどこで生まれるのだろう?

さっきまでの話の流れで言えば、自身の成長を得ること、もしくは、未来の時間軸、先見の明により肯定を得るということかも知れない。

しかし、そうではなく、比較や成長ではなく、

つまり、役割を果たしているときに、自分を存在を肯定することが出来るのではないか?

あるいは、そうするべきだと思い、そうした時。

...自己肯定感というものは、忙しくしている時には本来、必要ないものだと思う。

また、歯車となっている時も本質的にはそれは自分ではなく、歯車としての肯定感なのである。

自分が自分でなければ、それはかりそめなのである。

何も無い時の中で、自分と対話をする。
其処から導き出されたものに対して、真摯に向き合い、自分が自分である時間を過ごす。
そうして、自分自身であると実感することが本来の自己肯定感ではないだろうか。

ありとあらゆるものが掻き乱したかと思えば、すんと穏やかであったり、心の有り様は様々である。そうしたなかで、何処へ寄せれば自分がいるのか?立場を脱ぎ捨てたらどうありたいのか。自分の心と対話しなければ、自分が自分であることを確かめなければ、自分を肯定などしようがないのではないだろうか。

最近の「自分」は夕方から夜の間、ベランダにいることが多いようである。自分が自分でいられる時間を送る為にどうすれば良いか、少し話をしてこようと思う。

それでは、おやすみなさい。



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