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哲学カフェ#17「しあわせ」

あなたは今幸せですか?

ーー満面の笑みで「はい!」と答える人はあまりいない気がします。 

「はい」と答えない理由は、ひとつは遠慮だったり、ひとつは事実不幸だったりするためでしょう。もう一つより深い理由として、私たちは自分がどうなれば幸せなのか、どういう状態が幸せなのかよくわからず、問いのまえで困惑しているのではないでしょうか。

困惑は一時的なものであり、生活に戻ることもできるでしょう。しかし、私たちは哲学者(あなたも!)。問いを捕まえ、問いに憑かれて、哲学対話を行いました。夜の回をダイジェスト版でレポートしたいと思います。

今回のテーマは初参加の方からいただいたものです。多謝! 以下、趣意文。

私はずっと「ふつう」という言葉に縛られ続けてきました。小学生の頃の将来の夢は「普通のサラリーマン」で、思えばその頃から周りとのトラブルも多く、自分は「ふつうじゃない」と感じていたのかもしれません。そこで、「ふつうではない私」はいま「自分自身の幸せの見つけ方」について考えています。私は幸せであるはずなのに、幸せであると感じられません。幸せとはなんなのか、どうすれば幸せになれるのか、ぜひみなさんの声を聞かせていただき、いっしょに考えてみたいです。

素材集め

まず今回のテーマについて考えてきたことや話したい経験について順番に話していただきました。

シアワセはあんまり感じない。よくわからない。心地いい、おもしろい、楽しいは感じる。そもそも、シアワセにあんまりいいイメージをもっていない。シアワセに浸ることはカルト宗教に騙されているのと似ていると思う。
小さな幸せは感じる?)
岩盤浴が気持ちいい、とかが「小さな幸せ」であるならばイエス。
不幸は感じるか?)
あまり。そういえば、他人を見ていて、やっかみ半分で「幸せそうだ」と感じることはある。
カルト宗教以外のシアワセに騙される例?)
いわゆる「やりがい搾取」とか。騙されないぞと思っている。しかし、本当の「やりがい」だってあるはずで、自分は警戒心が強すぎるのかもしれない。
シアワセはよくわからない。大げさな意味が伴っている感じがする。最近、友人の間で「ウェルビーング」という言葉が流行っている。いい状態、健康、暮らし向きがいいこと、幸福感を持っていることあたりを広く指す。自分が思う「シアワセ」はこういった具体的なことを指す。自分は夏より冬が好きと気づく、何が好きかわかる、といったことがシアワセになる上で役立つし、わかることそれ自体が一つのシアワセであると思う。
気づくことは得意?苦手?)
どうだろう。考えたり、感じたりすることを大事にしたいと思ってはいる。
幸せ、不幸はよくわからない。本当にわからない。あまり考えたことがない。今日は話を聴きにきた。

実に、参加者6人中3人が「幸せわからない」派でした。シアワセのわかりがたさは『青い鳥』や『星の王子さま』などでも語られてきたところです。一般的な答えがないこと、一人のひとの中でも答えが揺らぎ変わっていくことが、シアワセの本来的な特徴なのかもしれません。このシアワセの言い難さはオイシサの言い難さに似ていると思いました。すなわち、ひとつひとつのそのときに味わうオイシイものはありますが、オイシサはこれだ!と一般的に語ったり明言したり把握したりはできない、という意味で。

これがシアワセ、こうしたらシアワセとピンポイントでいうのがむずかしい。クリーンヒットは打てない。近頃、シアワセは自分で「掴みに行くもの」ではなく、「いただくもの」という実感に変わってきた。自分で「掴もう」としても大抵思い通りにはならない。逆に、自分の状況がダメダメのなかでも、シアワセを「もらえる」ことがある。自分はシアワセになりたいけど、自分だけではシアワセにはなれない。人以外、動物や音楽からもシアワセをもらえる。
ほしいという欲求を表してはいけない?表していい?シアワセになるために自分でできることは?)
自分側でできることは「愛すること」。しかし、見返りを期待してはいけない。愛することはいただくためにするのではない。子育ても同様である。

非常におもしろいご意見でした。大きな箱をアントレプランナー的ハングリー精神で取りに行くといいことないというのは「舌切り雀」でもいわれていますね。欲張ることとシアワセの関係についてはよく考えてみたいです。
また、「掴みにいく」や「もらう」といった脈絡なしに、突然シアワセになったりすると困惑しそうです。人や物、事との交感のなかでシアワセは感じられるということでしょう。

シアワセは水のような状態。今日シアワセでも明日シアワセかどうかはわからない、変化していく。いままでの話を聞いていて、シアワセには体で感じる幸せ、心で感じる幸せがあると思った。体のしあわせ:食べ物、日向ぼっこ。心のしあわせ:人間関係、体験。食事のシアワセには、食べ物が美味しいというシアワセ(体)と、人と食べることのシアワセ(心)が含まれている。
シアワセかどうか変わるとはどういうこと?)
状況が変わることで変わることもあれば、同じ状況でもシアワセー不幸せが変わることもある。

何か決定的なシアワセ状態になり、それ以後ずっとシアワセ、ということはどうもなさそうです。「この瞬間よ、とまれ!あなたは美しい!」とファウストはいいましたが、今のところ、祈ってとまったという経験は聞かれていません。シアワセも不幸せも色褪せていき、また別のピチピチ新鮮なシアワセや不幸せがやってくる、それもまた色褪せる……というのが私たちの人生なのでありましょう。

大部分が色褪せるとはいえ、私たちは人生のなかでいくつかの色褪せない瞬間を反芻することがあり、そういった記憶が人生を彩っている、とも言えそうです。

大学の友達と友達と酒ものまずにトランプやウノを徹夜で遊んでいた。夜更けに、ひとりが「おれたちって幸せだよな」とボソッとつぶやいた。大学の4年間のなかで、友人関係のトラブルなどでうまくいかない時期があったが、いろんなことを経てきて、なんでもないトランプや明日になったら忘れるような話ができることに「幸せ」を感じた。
「同調圧力」は感じなかった?なんて返事した?)
感じなかった。ごく自然に、口からこぼれるように言っていた。「幸せだね〜」と相槌的に返した。
その人がいったことに意外性はあった?)
あまり。幸せさが顔にでやすい人。

哲学対話

後半はこれまで出てきた問いやテーマについてさらに深く語り合いました。

● シアワセをあげるーもらう
A) シアワセはギフトで、これちょうだいとか言うものではなく、あげるときにこれでしょ!と決まっているものではない。自分にできるのは『愛すること』だけ
B) ギブしたくなるようなリアクションってあるんじゃないでしょうか?
A) ない、と思う。策を練ってもだいたい外れる。
C) ギブしている側はギブの見返りがないと消耗する。たとえば、認知症の介護をしていてギブばかりで疲れ切って介護殺人にいたる場合もある。他、槇原敬之の『僕が一番欲しかったもの』では、主人公は自分が得た素敵なものをひとにあげることを繰り返していて「こんな自分どないやねん」となるが、自分が笑顔をもらっていたこと、それが一番欲しかったということ気づく。笑顔ももらえなかった場合、ギブを肯定できただろうか?
A) 介護については仕事的なものと思っている。正当な対価は必要。しかし、人間関係はお仕事的な関わりだけでない。自分のしあわせイメージは仕事とは関係ないところの話。ギフトにはサプライズが伴う。仕事的なものの「対価」にサプライズはない。ビジネス的に「これやればシアワセ」なものは一段下なシアワセという感じがする。
D) 何が起こるかわからない、どんな発言があるかわからない、というサプライズは哲学対話のおもしろさでもありますね。

● シアワセに騙し騙され
E) シアワセであると他人に騙されることだけではなく、自分で自分を騙すこともあると思う。
F) どういうことでしょう?どうして自分を騙すのだろう?
E) 自分はこれは好きだと思い込んでいたけど実は違っていた。みんなと同じで好きなんじゃないかと思っていたら、案外そうでもなかった。など。なぜ自分を騙してしまうかというと……そうすることで、自分が生きやすそうと思うからか?
G) 自分の例だと、例えば、高校時代にいじられていたとき。相手のことを「まあ悪いやつじゃないし」と許していたが、本当は「嫌だからやめろ」と毅然と言うべきだった。自分で自分をごまかして、過剰適応していたと思う。仕方ないけども。
H) 騙されに関して言うと、「騙されたとおもってやってみる」のように、はじめだけ自分を騙せるスキルは有用かもしれない。

●そのほか
昼の回では「幸福になる薬を飲んで、ふわふわ幸福感にみたされたとして、それは幸福か?」「幸福VRマシーンのなかにはいって、幸福な仮想現実のなかに生きていくことになったとしたら、それは幸福か?」「人は幸福になるためにせわしなく動き回っているが、動き回ることで不幸にもなる」「旅行にいくことは、旅行中そのときの体験的な幸福もあるが、旅行前のワクワク、旅行後の思い出にひたる時間など、イメージの幸福もある」といったテーマも話し合われました。

といったところで次回は2020/12/12です! テーマは「鬼滅の刃をテツガクする」。ぜひご参加くださいませ!

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