見出し画像

【「今日が人生最後の覚悟で何事に臨み、永遠に生きると思い夢を持つ」このホントの意味合いとは?】


まず!

今この文章を読んでおられる方は、人間に生まれているはずです。

「当たり前だ。何を訳の分からないことを!」

と思われた方がほとんどだと思います。

私たちは、人間に生まれたことを当たり前に思っています。

しかし、地球上だけでも人間以外の生物の数は、どれくらいでしょうか?

ちょっと俯瞰してみてください。

客観的に見て、

人間の数÷地球上の生物の数=人間に生まれる確率

です。

非常に低い確率です。

人間に生まれたと言うことは、
有ることが難いことです。

なので、
『有り難い』ことです。

人間に生まれないとできないことがたくさんあります。

この有ることが難い人間の肉体。
それを失うことは、いつ来るか分かりません。

ですので、

貴重な人生を無駄にしないために
今日が人生最後の覚悟で
日々大切に過ごしたいものです。

次に、

何事も目先だけ見ていては、
本質も見えないし、

永続する成功や幸せを得ることは
難しいでしょう。

これも、長期的に自分を俯瞰してみてはどうでしょうか?

仕事やお金は大切です。

しかし、それらは生きる「手段」であって、何が「目的」か?

時間軸を無限大にして、
「自分の本心」に問い正してみることは、もっと大切ではないでしょうか。

さあ、自分の『究極の人生の目的』について、考えてみませんか?

俯瞰して、抽象度を上げて!

【編集後書】

死後を否定する「断見外道」でも、

死後に変わらぬ魂が存在するという「常見外道」でもない

と言うのが仏教の立場です。

「因果応報なるが故に
来世なきに非ず、
無我なるが故に
常有に非ず。」(阿含経)

仏教の根幹は因果の道理(原因と結果の法則)です。

徹底しており例外を認めません。

なので、

結果がまだ現れていない原因があれば、それはこれから先に現れることが必ず有ると説きます。

つまり、

人間に生まれている間に
結果が現れていないならば、

人間の肉体を失った後に結果を必ず受けると説きます。

このことから、「後生はある」と説きます。

それと同時に、
仏教は死後に変わらぬ魂が存在することを否定します。

つまり、

固定普遍なアートマン的な存在である「霊魂」が続くのではない

と説きます。

では、何が続くのでしょうか?

AIの父と呼ばれる、マサチューセッツ工科大学のマービンスキー教授。

彼は人間の心を解き明かすのに
仏典が比類なきテキストになると言っています。

仏教では人間の心を8つに分けて解明しています。

その8番目の心が「阿頼耶識」(アラヤシキ)です。

アラヤとは蔵を意味します。

(ちなみにヒマラヤとはヒム・アラヤで雪の蔵と言う意味です。)

阿頼耶識は何を蓄積する蔵かと言うと、私たちの行為()が蓄積されるのだと説かれます。

私たちの行為が業のタネ「業種子」(ごうしゅうじ)として、
激しく入れ替わり立ち替わり
阿頼耶識に収まります。

滝は遠くから見ると1枚の布のように見えますが、その実態は、水滴が絶えず流れ入れ替わっている。

丁度、そのようなものが阿頼耶識であるのです。

この阿頼耶識が私たちの生命の実体で、
それは悠久の過去から永遠の未来に続いているものだと説きます。

なので、

例えば、どんなに今は権力を得ていて、
誰にも裁かれることがないとしても、

自分がやったことは、
この法則に従って、必ず自分に返ってくるのです。

やったもん勝ちや、
ヤリ逃げは無いのです。

ですから、共に心して己の行動を慎んでいきたいと思います。

そして、自分がして欲しいことを、
相手にもしていきたいと思います。

情けは他人のためならず。

回り巡って自分のためですから!

<<<<<<<<>>>>>>>>>>

人身受け難し、いますでに受く。
仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、
さらにい ずれの生においてか
この身を度せん。
(三帰依文)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?