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オリジナル曲には価値のつけられないほどの価値がある

30年近くインタビューをしてきた私は、編集ライター講座で生徒さんにいつも「インタビューは、その人の『人生のかけら』をいただくこと」だから、大切に受け取る謙虚さと感謝の気持ちが大切なんだよ、と伝えています。

時間をいただくということだけではなく、「経験と蓄積された知識から生み出された知見について話を聞かせてもらう」ことは非常にありがたいことなのです。
 
そんな想いがベースにあるので、「みんnanoライブ」でこんなことも伝えています。

「オリジナル曲」は「いのちのかけら」。

だれかが作った曲は、その人の生きてきた人生のなかで育まれた価値、センスなどがあってこそ、生まれてきます。

ゆえに、オリジナル曲は「いのちのかけら」だと思うのです。

また、「オリジナル曲(ダンス)」は、イコール「どこにもない」という意味ではありません。

「どこかで聴いたよなメロディ」で大丈夫なのです。クラシック育ちの私からしたら、「これまで聴いたことがない曲」を生み出すのは至難の技。無理に作ろうとしたら、それは「嘘」になりますし、「曲に聞こえないような曲」「音楽とは思えない音楽」になってしまいます。

料理と同じだと思っていて、見たこともない見た目の料理は食べたいと思えないし、食べたことのない味だったらちょっと不安になりませんか?

プロでさえ、「あぁ、あのアーティストの影響だな」とわかるような曲を生み出しているほど、いま、「どこにもない曲を作れ」というのは、「人間の感性を捨てろ」と言っているようなものです。
 
だれかのオリジナル曲に比較対象はありません。
そこにあるのは「好み」かどうか、ぐらい。
 
発表する側の立場からすると、社会人バンドでコピー曲をしていたころの100倍以上、緊張します。比較にならないほどの緊張です。

それはなぜか。

・自分が作ったもの=自分自身だから。
・「評価する文化」の観客がいることを知っているから。
・ピアノだけ、歌だけ、ではなく弾き語りだから。
・「吹奏楽部」や「バンド」と違って「一人」だから。

 
絶対評価ではなく相対評価で育ってきた私たちの根底には「評価する文化」が必ずあります。その証拠に、ある友人には「前よりピアノ上手くなってるやん」と、なぜか上から目線で言われました。
 
本来、オリジナル曲には「上手」とか「下手」はありません。
「正しさ」もありません。

つい評価してしまう人というのは、おそらく「正しさ」という他人が決めた価値観や常識を基準に生きている人なのでしょう。

がんばっていない人はダメ。
上手な人以外はダメ。

こういった「他人軸」な考えが、根底にあるのだろうと思います。

「他者評価による基準」がないといけない。ということは、きっと、その人自身が、自分の選択に自信がない……と言えるのかもしれません。

私の曲は、「だれかのため」に作ることもありますが、実際に「頭のなかに聞こえてくる」ということが多々あります。それをピアノで再現して譜面に起こしているのが、「祀り場シリーズ」と親しい友の間では話している楽曲です。「にしきとべ」から始まって、「雲ヶ畑 〜志明院への道」「玉置神社」など、祀り場でよく聞こえてきます。

50年も生きてきたら、どこかで聴いた曲なのかどうかも、もうわかりません。でも、流れてくると結構、その後、何度も聞こえてきます。早く譜面に起こせと急かされているのかと思うほど。

そうやって生み出した、わが子のような大切な楽曲たちを「評価」などされたくない……というのが本音です。

価値があるかどうかを決めるのは、作者のみ。

そして「オリジナル」=「いのちのかけら」という「価値」に気づけていない人は、きっと、その人自身が、まだ自分の価値に気づけていないのではないでしょうか。

オリジナル曲、オリジナルダンス、それを発表するということそのものが、「自尊感情」がなければできないことであり、「自己肯定感」を育む第一歩。

本来、オリジナル曲を否定するということは、その人の存在そのものを否定するのと同じ。そのぐらいの大きなことだと、私は思っています。

「みんnanoライブ」の実行委員は、そんなオリジナルの楽曲を発表する場を「あたたかく安心できる場」として提供します。安心して歌ってください。安心して踊ってください。

私たちが、みなさんを受け止めます。来年は2020年12月12日開催。年明けには詳細を発表できると思います。

https://www.minnanolive.com/

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