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事実が地すべり

あの日この目にした事実を果たして事実として受け入れられているだろうか?

「父親が救急車で運ばれた」
「入院をしている」
「非常に危ない状態で覚悟を決める」
「病室で息を引き取る」
「お通夜とお葬式、やがて骨になる」
「納骨堂選び、仏壇購入、香典返しの準備」

すべてこの目で見てきた。
事実を受け入れようとしている家族や親戚の姿もそばで見てきた。
見てきたのに、事実が言葉として流れていっている。

字すべり。
苦手な英語で長文を読んでいるときみたいな。
意味が入ってこないあれ。

言葉では理解できる。
けれど、意味は理解出来ている?

最後のお別れのとき、覚悟を決めて受け入れる準備をした。覚えている。

でも今もまだ、ただの言葉として滑っていっているような気がする。

多重人格か、、?

俯瞰して一歩後ろから見(ようとし)ている自分は何者なんだろう。

本当にあたまのなかがうるさいです。

最近の歯車の合わなさはこういうとこからも来ているのかも。
全然辻褄が合わない。
言葉に力がないのも自覚している。

今日はものすごく下がりgivemeで飲みに行って喋りすぎた。

話を聴いてくれて
自分のことのように受け入れてくれる,考えてくれる友人には感謝ばかり。

なのに、ぜーんぜんたのしくない話ばっかりしてしまった、困らせたくないよ〜〜


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