【ふくろう通信15】「沖で待つ」読書会
7月7日は東京都知事選の投開票日。現職、最有力挑戦者がともに女性という構図は、まだ不十分ながらも、男女がともに生きる社会が一歩実現に近づいた現れと言えるのではないか。
絲山秋子(いとやま・あきこ)の芥川賞受賞作「沖で待つ」(文芸春秋)は、1966年生まれの絲山が男女雇用機会均等法(1985年成立)の下での第一世代として大手メーカー(INAX)に総合職で入社した経験を元にした短編。同期入社の男女2人の、恋愛関係には至らない友情を描いている。都知事選直前に開かれた読書会には男女約10人が参加した。
(あらすじ)
主人公の及川は女性総合職として住宅設備機器メーカーに就職。同期の太とともに福岡営業所に赴任した。地元採用の一般職の女性社員からよそよそしく扱われながらも気のいい太に支えられ、現場を飛び回る。転勤で離ればなれになった2人は東京で再会。生きていたときの秘密を第三者に知られないため、先に死んだ方のパソコンのハードディスクを壊す約束を交わす……。
「さわやかな青春小説」「子供の作文」
読書会では「さわやかな青春小説」「癒やされた」といった肯定的な意見が大勢を占めた。男性参加者からは、ハードディスクを壊す約束について、「2人の信頼関係を強調するもの」という指摘があった。「沖で待つ」というタイトルには「人はみな、どこかで待ってくれている存在があることを願っていることを反映している」という読みが示された。文章表現では「わかりやすい文章で込み入った状況を説明するのがうまい」「リアルで滑稽味のある描写」といった意見が相次いだ。
女性参加者からは「読んで温かい気持ちになった」「太っちゃんの不器用で繊細なところにキュンとした」「ちょっと切なく、味わい深い読後感」と絶賛する声が出る一方、「子供の作文みたい」「この作者の本をまた読むことはない」と全否定の意見もあり、賛否は割れた。職場を描いた「お仕事小説」の側面もあり、読者の就業体験の違いによって受け止めが異なったようだ。
「未必の故意」
男女の対等なあり方を作品に即して見ると、「同期」は男女を超えた関係だから友情がはぐくめたという見方が多かった。同期は共通のバックボーンを持ち、親しいが一線は越えないという点で「異性のいとこに近い」という意見にはなるほどと思わされた。
ただ、現実世界では同期の男女が恋愛関係になることは珍しくない。実際、作品中でも2人は「さては俺に惚れたな」「ばか。誰が惚れるか」と軽口をたたく。殺人罪の構成要件の一つに「未必の故意」という用語がある。積極的に殺すつもりはないが、仮に自分の行動によって相手が死ぬことになってもかまわないという心理状態のことだ。2人にも、恋愛関係になるつもりはないが、そうなってもそれはそれでかまわないという関係が見て取れる。そんな絶妙なバランスの上に成り立った関係が「さわやかな青春小説」につながっている。
一方、作品を離れて参加者個々の経験に基づくと、意見は違ってきた。「男女が仲良くなるとどうしても恋愛感情が芽生えやすくなる」「距離感が難しい」。中には「男女がつきあうと全部恋愛関係になるから、『つきあうな』というのも一つの知恵」という主張もあった。
作品を覆う「死」のイメージ
「沖で待つ」が平明な語り口のさわやかな物語であることは確かだが、太の死がテーマになっていることから「死」のイメージが物語全体を覆っている。そもそも若い男女が死後の遺品整理を約束し合うこと自体、異常といえる。そしてその約束をしたとき、及川は自分の方が先に死ぬと予感する。及川が人には言えない、犯罪すれすれの趣味にふけっていることからも、ロールモデルがない中、女性総合職として大きなストレスを抱えていたことが背景にある。太という支えがなければ、死ぬのは及川だったのではないか。
絲山と同世代の読者には、「沖で待つ」というタイトルに、「涅槃で待つ」という遺書を残して投身自殺した二枚目俳優、沖雅也(1952~83年)を思い出す人もいるだろう。事件の背景には同性愛があり、差別的な見方が根強かった当時は非常にスキャンダラスに報道された。作品の中で太が死ぬのも投身自殺の巻き添えになったのが原因であり、「沖」は死後の世界を連想させる。死後の世界で、性を超えた関係を結ぶ太が見守ってくれているという信頼感があるからこそ、及川は生と向き合うことができたのではないだろうか。
では、また。
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