見出し画像

初海外は、ハワイよりニューヨークへ行け

私、実は未練たらしい女だ。あんまりネガティブな言葉を自分に使いたくないが、ここまで長い年月が経っても、未だ引きずっているとは。あの刺激的な日々は、11年たった今でも鮮明に覚えていて、たまに夢にまで出てくる。

今回は、そんな旅の思い出を綴っていく。


会社のいけない規制


上司からの一言

私は、短大生の時にラジオの仕事を始めた。初心者だけれど、夕方の生放送のディレクターを務め、後にお昼の生ワイド番組のアシスタントから、数年後にはディレクターへと昇っていった。

フリーで3年働いた後、制作会社の社員で出向という形に変わり、携わる番組も責任も増えていった。この時、番組チーフがある規制をかけてきた。それが、

「3年間は、海外旅行へ行かないで」

当時22歳の私は、海外旅行へ行く資金もなけりゃ、当時付き合っていた彼は、日本食の料理人で海外に興味を持っていなかったので、考えていなかった。とにかく今は、ラジオについて学びたいことだらけで、制作として充実した日々を送って行った。

それから、次々と番組以外の仕事が増えて行った。ラジオの代表として会議に参加したり、CMの審査員をしたり、年に一回は東京出張へ行くこともあった。
なぜ、こんなにチャンスがあったかというと、若手がいなかったから。私はその後、何年経っても年上の後輩ばかりで、年が一番若かった。


意外な友からの一言

ちょうど3年がたった頃、しばらく連絡を取っていなかった高校時代の友人から連絡が来た。


「海外へ行こうよ!」


学生時代、留学できなかった私は、海外には猛烈な興味があった。貯蓄も増え、仕事のリズムも掴めた頃だったので前向きに考えた。この頃、友人はというと、仕事に疲れ辞めてきたので、時間があるから一緒にどこかへ行こうという、傷心を癒したかったのだ。しばらく連絡を取っていなかったが、時間を超えて意気投合することは分かっていた。

ただ、パンフレットをもらうつもりで、旅行会社を訪ねた。
そこですぐ目に入ったのが、「ハワイ旅行」だった。友人はすでに行ったことがあったが、私のためにもう一度行ってもいいと言ってくれた。それから、話を聴くと、おおよその日程を言われ、なんとなく行く方向で動き出した。

両親は、「自分のお金で行くんだからどうぞ。」という程度。
一方、会社はというと、
「ええー!どこへ行くの!?」と、不安を隠せないようだったが、3年間行きたかった海外を我慢したことを告げ解禁となった。(およそ15年も前のことなので、当時はパワハラだとは思っていなかった。今これを言われたら抗議していただろう。)

ほぼ日程も決まっていたこともあり、すぐに動き出した。まずは初めてのパスポートを取り、スーツケースを借り、換金し、準備万端!英語科を卒業したが、すっかり忘れていたので、出発直前まで知り合いの英語スクールに通って記憶を蘇らせた。

いざ出国!


ハワイ旅行

初めての飛行機、初めての海外で、英語を使う機会に心躍ったが、ほとんど日本語が通じるという現実に唖然とした。確かに日本人は多いが、ここまで日本語で過ごせると海外にいる感じを受けなかった。唯一、英語が通じず困ったホテルのロビーの記憶は今でも残っていて、いい経験だった。もちろん、景色やアクティビティは満足。しかし、憧れていたアメリカをあまり実感できずに帰ってきた。


3年後の再始動

それから、しばらく仕事に励んでいた。大きな仕事を任され、長期に渡る番組を成し遂げた時、また友だちが仕事を辞めて実家に帰ってきた。そして、「ヨーロッパに行こう!」と盛り上がり、旅行会社へ向かった。

すると、パッと目に飛び込んできたのが、「NYC15万円」の文字!憧れのニューヨークに行ってみたい!という欲望がヨーロッパより勝った。友人も行ったことがないというので、その場で即決し、会社には有無を言わせない方向で進めた。

同時多発テロから9年。街も安定しているようだし、心配はなさそうだ。


憧れのニューヨーク


交感神経が活発

価格が安かったこの旅行は、チャイナエアラインによる、台湾発アンカレッジ経由の長時間の旅路だ。友だちと、『セックス・アンド・ザ・シティー』を見て気分を上げて現地へ向かった。

JFK空港に着いた空気感がすでに、かっこよく見えていた。少しの緊張感とアメリカに来たという高揚感が相まっていた。

夜9時に、ルーズベルトホテルに到着したが、眠ってなんかいられず、すぐさまタイムズスクエアへ出かけた。

画像1

ここに、どのくらい佇んでいただろうか。見るもの全てが煌びやかで刺激的、眠らない街とはよく言ったもので、車のクラクションやサイレンは、映画で見たまんまの風景が、実際に目の前で起こっていることに、友だちと何度も興奮しあった。いくら時間があっても足りないほど、全てが魅力的だった。


7泊5日の日程

ほぼ飛行機の移動だが、観光する時間はある。初日はオプションで、旅行会社が手配してくれた車両に乗って案内をしてくれた。

その一つ、国際連合本部ビルは、空港と同じようなセキュリティーチェックを受けて中に入った。戦後の建物らしい近代デザインが施され、長く残って欲しい建築物だ。ロビーには、シャガールのステンドグラスが輝いて一際目立っていた。

画像2

自由の女神を見に行った時も、長蛇のセキュリティチェックが行われていた。島内を散策したり、そのまま街を散策。夜には、同郷の女性ジャズドラマーの演奏を聴きに出かけた。

他にも、ティファニーでアクセサリーを買い、夜のエンパイヤーステートビルにも登り、アメリカ自然博物館も巡った。

日中のタイムズスクエアも爽快だった。

画像4



ニューヨークで一番困ったのは、時差の関係で眠気が日中に襲ってくること。電車の中や駅の途中で眠くて静止する様子に、友人は何度も呼びかけて起こそうとしたことは、今でも思い出しては笑える。

そんな時差ボケの影響や滞在時間の短さで、満足に施設を巡れなかった。
行けなかった場所は、MoMa美術館やグッゲンハイム美術館、メトロポリタン美術館、セントラルパーク、ハイライン、チェルシーマーケット、ブロードウェイなど。またいつか訪れてみたいという欲望は年々強くなっている。



一番の目的はイサム・ノグチ


私が一番夢中になっているアーティストに、イサム・ノグチがいる。日本人とアメリカ人の間に生まれた人で、子どもの頃から数奇な人生を送ってきた。人とのコミュニケーションがうまくいかなかった彼は、作品を通して人と対話をしてきた。

イサム・ノグチは晩年、私が育った香川県高松市牟礼町という田舎にひっそりとアトリエを構えていた。そんなこともあり、興味を持ち調べていくうちに、暮らしていたニューヨークへ行ってみたいと感じるようになりやってきた。


イサム・ノグチ美術館

ブルックリンブリッジを渡り、クイーンズにアトリエとして使っていた場所が、美術館になっている。周りは特に工場や住宅が並ぶ静かな街に、こちらもひっそりとした佇まい。


中には、空間と作品が見事に配置され、窓から入ってくる日差しさえも演出の一つと感じさせるほど、神秘的な空間だった。写真を撮るのではなく、全体を身体を使って記憶したいと吸収した。庭の植物と彫刻の配置、植物や家具とのバランスも見事だった。

この建物には、2階部分の展示もあるが、ロープが貼られ入れなかった。
「今、修理中なの、来週戻ってきて!」と。
この言葉に痺れた。7泊5日の旅行者だと思わず、向こうの女性はフレンドリーに応えてくれている。この時私は、すぐに戻って来なければという気持ちにかられた。


赤い立方体

車で巡るツアーの時に、世界貿易センター跡地も寄った。9/11メモリアル・プールズを見た後、そこから近いある場所へ走って向かった。

それがこれだ。

画像3

イサム・ノグチ「赤い立方体」1968

64歳の頃に作成。近くから見上げると、正四角形に見えるが、実際には縦に長い。人間の眼球の仕組みを計算したうえで、作られているからその技術に圧倒される。真っ赤ではなく、朱色の落ち着いた色合いとシルバーがビル群に馴染んでいて、嫌味のない存在感を与えている。

写真右の下から押し上げているのが私だ。当時、年賀状に、自分の写真を使っていた。それも、イサム・ノグチの作品と撮ることを毎年目標にしていた。せっかく、ニューヨークにいるので、これは絶対に行わねば!とオレンジのスカートにブーツを履いて挑んだ。友だちに、時間がないと急かされながら、何枚も写真を撮り続けた。


ロックフェラーセンター

ロックフェラーセンタービル群の中の一つに、大きな壁面彫刻がある。1940年、AP通信社の建物の入口に、躍動感ある5人の記者をステンレスで表現している。

イサム・ノグチ36歳の時の作品。

これを探すのに辺りをグルグル回った。日が暮れても、見つけるまでは絶対に帰るまいという思いで、探し続けた。すると、ロックフェラーセンタービルの隣のビルにやっとこれを見つけた。圧倒される大きさと斬新なデザインに見入ってしまった。友人はこの時部屋で休んでいたが、なかなかこの場から立ち去ることができなかった。


他にも、近くのビルのエレベーターホールに彼の手がけた作品があったので、それも見に行った。写真を撮ることはできず、警備の人に厳しい目で見られた。ビルに関係のない人はすぐに分かるのだろう。


すぐにでも戻りたい


見たいイサム・ノグチの作品リストは、全て肉眼で鑑賞することができたが、作品はこれだけでない。また、美術館も網羅することができなかった。
私が訪れた場所は、点と点がいくつも打てただけで、それがまだ線になっていない。住んでみないと知り得ない感覚を掴んでみたい。

ある先輩は、あまりの美しさに半年後に再び訪れたと、その興奮を語ってくれた。自分もいつかそこに戻るんだという気持ちが常にあるので、旅行会社のパンフレットは、イタリアに来た今でもたまにチェックしている。


刻々と変わる街だが、世界の中心であることには間違いがなく、数えきれない歴史の瞬間を記録してきた。一流の人を見かければ、日々がむしゃらに生きる外国人も共存している。

ハワイののんびりした時間の流れが合う人もいるだろう。だが、若い時は、勢いのあるニューヨークをお勧めしたい。騙されたと思って行って欲しい。自分のエネルギーを沸かすのは、この街だからこそできることではないだろうか。



11月17日はイサム・ノグチの誕生日。毎年11月になると、彼の伝記に目を通したくなる。ぜひ、今日という日をきっかけに、イサム・ノグチに触れてみてはいかがだろうか。あなたの近くにも、作品はきっとあるはず。


今後、イサム・ノグチにまつわる話は、シリーズでお送りしていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?