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午後のプールのぬるい風

誰かの心に水をあげることには躊躇がないのに、自分のなかにある小さな芽には全然優しくできないときがある。

せっかく顔を出してくれた小さな願いの芽に、太陽の光も浴びせず、澄んだ水もやらず、この世界は厳しいよ、風も吹くし雨も降るし誰かに踏み潰されてしまうことだってあるんだよ、と物知り顔で話してしまう。

ほんとうはそんなこと、意味のないことだと知っている。でもいつからか、傷つかないことと経験しないことをひとまとめにして、弱くて脆い自分の心を守ろうとするようになっていた。その芽がどんな葉を出してどんな花を咲かせるのか、見届けてあげられるのは自分だけだったのに。

そんなことを続けていたら、いつからか芽は私に似て慎重になり臆病になり、のびのび成長することをやめてしまった。そして私は、気づいたころにはどの種が芽を出したがっているのか、そのささやかなサインすら読みとれなくなっていた。

この人に会いたい とか
こんなところに行ってみたい とか
これが食べたい とか
この服を着たい とか
これがしたい あれがしたい

そういう欲望が、もしかしたらそういう欲望だけが、壮大な人生の前に尻込みする自分を明るく軽やかに転がしてくれるというのに。ぎゅっと押さえられた感情は、鞄の中で忘れられたパンみたいになって寂しそうにしぼんでいた。

全部がゼロになって、午後のプールにぼーっと浮かぶような毎日を過ごしていたとき、自分のなかにもう何も願いの種が残っていないことに驚いた。あんなに夢に溢れていたはずなのに、今にも未来にもなんの期待もなく、これ以上ないくらい空っぽな何かとして、ぷかぷかと水に揺られている。

道しるべのように慕っていた願いのコンパスを失って、どっちが上かどっちが前かわからなくなってしまったという怖さに飲み込まれた。でも、飲み込まれて闇に浸りながらもどこかで、この闇をきちんと受け止めることが自分を強くしてくれるような、そんな予感があった。その予感だけが体温を持っていて、わたしをぎりぎりのところで生活に繋ぎ止めてくれていた。

夢があること
前に進むこと
変わり続けること
何かを得て
誰かよりすごいひとになること

それを無条件に、それだけを無条件に、生きていくための正しい姿勢だと思い込んでいた。

でもほんとうはそうではなくて、ただそこにいる、願って願って走って弾けて、絶望して燃え尽きて、何にも感じなくなっている自分だって、生きているならそれだけできちんと成立してる。居場所がある。何も間違っていないし、何も足りなくない。たとえその姿が地味でも淡々としていても、ひたむきに命を燃やしている完璧ないきものだ。

夢や前進や欲望は、その土台の上に立っている。プラスアルファの、ご褒美みたいなもの。人生をおいしくしてくれる調味料であることはたしかだけど、ゼロの自分を蔑ろにしていたら、受け止めるお皿がないまま はらはらと散っていってしまう。なんでもない、なんにも持っていない自分を愛してあげないと、どんなに素敵なものも無限に満たされない底なしの部屋に吸い込まれていってしまう。

何も願わない、何も欲しくない自分を認めてあげたら、不思議だけど少しずつ、小さなことからひとつずつ、また種は芽を出してくれるようになった。花がつかなくても、枯れてしまっても、それがきちんと土にかえって人生を巡らせてくれることを知っているから、わたしはその芽を優しく見守ることが出来るようになった。

人の人生というのはそのどれもが特殊で、同じ人生なんてこの長い歴史のなかで一つも存在していない。言葉は、もやもや漂う水蒸気のようなものを一つに束ねて目の前に現してくれる素敵なものだけど、ときにはひとつひとつ違う何かを無神経にまとめて均一にならしてしまう残酷さも持っている。私が、あなたが、誰かが経験した無数の出来事や感情は、間違いなくたった一つの、誰にも侵せない、誰にもまとめられない、誰にもわかったような顔で語られるべきじゃない大切なこと。それを自分にも相手にも、絶対に忘れないでいたい。どんな出来事や感情も、脊髄反射のように手垢のついた動きで既存の引き出しに分類するんじゃなく、ちゃんとそのまま、見つめてあげたい。

どんな自分も、認めてあげよう。言葉にすると軽くなってしまうし、なんだか定型文みたいな組み合わせだけど。人はみんな違う人生を生きている。正しい姿とか、あるべき姿とか、やるべきことなんて本当はないのかもしれない。あなたはあなたにしかわからない文脈の中で生きていて、同じ行動だって言葉だって人それぞれ全く違った温度と意味を持っている。時間の進む速さだって違う。人生のサイズも、形も、色も、全部異なっていて全部正しいと思う。そのなかで関われたなら、とっても嬉しい奇跡みたいなことだ。無数の人生が、惑星みたいにそれぞれのルートを描きながら、近付いたり離れたり、また出会ったりして、最初で最後の物語を描き続ける。

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