東京スカパラダイスオーケストラ35周年。ドラマー・青木達之との1982年を思い出す。
本記事は5/23 WEB婦人公論に掲載されたものを許可を得て転記してます。
東京スカパラダイスオーケストラ35周年。ドラマー・青木達之との1982年を思い出す―友よ静かに眠れ。あの蒼い空でまた会おう
スカパラ35周年と青木が亡くなって25年
2024年4月、NHK『朝イチ』からは、東京スカパラダイスオーケストラが35周年を迎えたことが流れていました。朝の時間帯には似つかない華やかな演奏の後、メンバーのエピソードが語られている。もう35年ということは、君が亡くなってから25年経ったということ。映像をぼんやり眺めながら、君がもし生きていたらどうしていただろうか。そう考えていたらあの蒼い空を思い出しました。
オレ「どう調子は?」
青木「まぁ。いろいろあって大変」
オレ「そっか」
青木「そうそう。あいつ。ゴリ松にババ(タバコのこと)で捕まったみたい」
オレ「バカじゃないの」
青木「明日の朝には正面玄関に貼られるね」
ひとの停学をネタに他愛もない会話をしたあの日。白い校舎に蒼い空がキラキラしていました。
あの日から変わったもの、変わらないもの
日吉の丘に建つ慶應義塾高等学校の校舎は、1934年に曾禰中條建築事務所の網戸武夫によって設計され、鉄筋コンクリート製の3階建てとして建てられました。太平洋戦争中は海軍の司令部として使用され、終戦後は進駐軍である米軍に接収されました。
そのためか、教室のドアは分厚い鉄製で非常に堅牢にできています。バネなどの仕掛けがないため、勢いよく閉めて手を挟んだら指が切れそうなほどでした。
トイレは冬は寒く夏は暑い。そしてタバコを吸うための場所でもありました。現在の南側グラウンドは人工芝になっていて、土埃に悩まされることはないでしょうけど、当時の南側グラウンドは土だったので、土埃でいつも机は埃っぽかった。登校して最初にすることは、トイレットペーパーの芯を抜いて楕円形にし、机や椅子を拭いてきれいにすること。そのトイレットペーパーは眠るための枕にもなりました。
1学年18クラス、男子学生が約850名のマンモス校。巨大な校舎に、トイレは南側と北側2ヵ所にしかありません。休み時間の混み具合が想像できると思います。君と最初はただの顔見知りに過ぎませんでした。
ケンカ、タバコ、廊下に置かれた謎の巨大なうんこ。毎日が事件の連続だった気がします。トイレでの何気ない会話が、君との初めての出会いでした。君は慶應普通部から、オレは中等部からの進学。まだ高校1年生で、学生服の詰め襟にカラーを入れていました。お互いにウブでした。
オレ「最近、片岡義男にハマってるんだ」
青木「へぇ。どんな本?」
オレ「バイクとかサーフィンやってる主人公が多いかな。あとステーションワゴンに乗ってる綺麗な女性がよく出てくる」
青木「いいな。海でも行きたいよ」
オレ「こんど行こうよ。逗子とか」
青木「うん。もう夏だねぇ」
遠い目で話す君は、少しブラウンのような灰色がかった目をしていました。結局海に行くことはなかったけど、はっきりと憶えています。静かに笑みを浮かべ、落ち着いて語る君の声からは、生まれ持った賢さというか、一見控えめだけど「揺るぎない芯の強さ」があったのだと。
オレたちの1982年
スマホもSNSもない時代。1982年(昭和57年)は慌ただしい年でした。千代の富士が絶頂で、のちにF1レーサーになる中嶋悟が台頭してきた頃。当時の日本は事件に溢れていた気がします。授業中によく読んだのは「はみ出しぴあ」でした。
不遇な家庭とスクール・カースト
君とオレを引き寄せたのは、家庭環境だったように思います。お互い家庭環境については触れたくない話題でした。言葉を交わさなくてもその事をわかっていたのも事実です。温かい家庭に恵まれているとは言い難い状況でした。周囲には日経の記事に登場するような大企業の息子や、政治家の子息が多かったから。だから触れられたくない家庭のことが共通言語のようなものだったのは間違いありません。
そして、慶應義塾高等学校はマンモス校だったので、日本社会の縮図を体験できる場所でした。
例えば、当時の生徒会費が一人約5千円として、全校生徒2500人で1250万円もの予算を生徒会が配分していました。社会の縮図とは、目に見えない階層が存在すること。そして内部出身者が偉いという空気感に加えて、頭の良し悪し、容姿や親の経済力などの総合力を推し量る文化がありました。つまり校内の擬似的な社会評価の総合力で、スクール・カーストが形成されていたのかもしれません。高校生なのにすでに社会における生きる力が試されていたように思います。
しかし、そんな事は関係ないとばかりに君はいつも飄々としていて、音楽の世界へ突き進んで行きました。君の天才ぶりを感じたのは、日吉祭のメインステージにドラマーとして現れたとき。音楽に無関心だった僕でも、その凄さが分かりました。同い年にこんな才能を持った人物がいることに衝撃を受けたものです。オレは学園祭で女の子を追いかけているただの高校生。才能の違いがあまりに大きくお話になりませんでした。
高3の日吉祭のあと、渋谷で100名ちかく同級生のメジャーどころな顔ぶれが集まったとき、君と乾杯したことを忘れません。
青木「どう?女の子の調子は」
オレ「なに。それ。勘弁してよ」
青木「可愛い子。オカジュー(自由が丘のこと)で連れてたらしいじゃん」オレ「静粛に。静粛に」
青木「よろしくお願いしますよ〜」
軽口を叩きながらも、高校生らしい「カッコよさとは何か」(ダサいのは嫌い)という美意識で通じ合っていたからでしょうか。他に思い出すのは、トイレ、タバコ、女の子、しょうもない笑い話ばかりで誌面には書けそうにありません。でもね。メジャーデビューしても、あの頃のカッコよさを続けていた君が眩しく見えたのは確かです。
今を生きる意味
地頭の良い君ならわかると思うけれど、仕事をしていれば「言ってることとやってることが違うじゃないか」というストレスが溜まる事はよくあるものです。誰も望んで「期待外れの仕事」をしようとは思いません。
しかし、世の中は複雑ですべてがグレーでできている。君のような秀でた才能は僕にはなかった。だからどうしようもないことのほうが多かった。もし君ならこんなダサい生き方をしている今のオレにどんな声をかけるのだろう。
墓の前で考えたのは、今を生きる意味とは何かということ。いい歳になって恥ずかしいけれど、考えれば考えるほどわからない。だからこそ生きているのでしょう。でも、君はここにはいない。早くに亡くなった君と、だらだらと生き残っているオレ。泣くな男だろうと言われるかもしれないけれど、涙が止まらなかった。それも意味のないことなのだけど。
またあの蒼い空で会おう
あれよアレよと波間に消えるキラキラと輝く泡のような青春。あっという間に僕たちの高校時代は終わりました。人と同じように、時代にもそれぞれの運命があると思うのだけど、決してノスタルジーではなく、あの時代には現代とは違った何かがあったのだと思う。その時代を一緒に生きられた事を書き留めておきたかった。
君の死については諸説あるけれど、本当のことは知らない。心の病で亡くなったと言う人もいれば、他の理由を挙げる人もいる。でも知ってどうするのか。ただ伝えたいことは、君はついに探し求めた、君だけの安らぎを見つけたのだと思いたい。
君のことをいつまでも忘れない。いつファンが来ても気持ちよくお参りできるようにお墓は綺麗にしておいた。だから安らかに眠ってほしい。
バンド青木よ。1982年の蒼い空でまた会おう。
じゃあまた。