世界線の彼方で 【エッセイ】
長い階段の坂を登っていた。
まだ朝なのに陽が昇ってくると暑い。湿度も高い。カラダから汗が噴き出てきた。坂の途中の夏みかんの木には大小の実がなっている。両脇は、木が生い茂り苔の匂いがした。登りきると視界がひらける。古いお寺の門をくぐった。境内には人の気配はなくて、しずまりかえっていた。微かなお香の香りを感じる。白い砂利は綺麗に整えられていた。
私の祖母は京都の寺で眠っている。明治時代の最後の年に生まれて、大正、昭和、平成と4つの時代を生き抜いた。彼女は強く、私の唯一の理解者であり相談相手だった。だから京都に出張するたびに足が向く。悩んだり迷いがあるとき、あなただったらどう考えたのだろうかと。
ひしゃくで水をかけて、お線香をつけて、お供えを添える。祖母の好きだった水ようかんの蓋をいま開けようとするが、指がとまる。
隔世遺伝なのか不遇なのか、両親とはまったく意見があわなかった。仕事だけの父親、酒に溺れる母親。いさかいの絶えない家は、子供である私にとって先行きが見えない世界だった。祖母だけが頼りだったけど、子供にとって東京と京都は遠すぎた。
やがて高校生になると夜行列車で訪ねるようになった。あの夏の日を思い出す。「青春18きっぷ」が「青春18 のびのびきっぷ」と呼ばれていた頃だ。
成人した年、祖母は小さなビールグラスで乾杯をしてくれた。お祝いは万年筆だった。
私はよく手紙に俳句を書いて送った。祖母は足が不自由になっても、落柿舎の俳人による句会にだけは毎月参加していたのを知っていたからだ。それは病に倒れるまで続いた。
あの高校生の夏休み、句会に行った祖母を迎えにいった。夕陽に赤とんぼが飛んでいたのを今でも憶えている。
※落柿舎とは・・・京都市右京区の嵯峨野にある、松尾芭蕉の弟子・俳人・向井去来の別荘として使用されていた場所。由来は、庵の周囲の柿が一夜にしてすべて落ちたことによる。
東京駅の近くの広告会社に就職した。
社会人になると父とは親子としてと言うよりも、ビジネスマンの先輩として乾杯をするようになった。銀座の行き付けのスナックのママに私を紹介する父は嬉しそうだった。社会人1年目の私は蒼々しくあるべきだったのかもしれないけど、斜に構えて世の中を覚めた眼で見ていた。世の中はバブル景気に沸いていた。
あの頃が最もビールの飲まれた時代だったと思う。宴会での乾杯、部旅行での乾杯、忘年会での乾杯、乾杯は仕事の一部だった。遊びの乾杯より回数も多かったし、比重も重かった気がする。
乾杯の時に目上の人よりも低くグラスをあわせるのが当たり前になったのは、社会人になってからだった。昭和の会社員に多様性なんて言葉は無かったし、選択肢は限られていた。平成初期の転職者は裏切り者か脱落者として色眼鏡で見られることが多かった。
ビジネスでの乾杯は素晴らしい結果が出た時や、祝うべき成果の出た時だろう。つまり、乾杯は前途洋々の象徴だった。あの頃の乾杯は力強かった。
結納の日の乾杯は違った。
掘りごたつの席で、両脇に座った両親は10時と2時の方向を見ていた。懐石を前にして相手の親は苦笑いをしている。
乾杯はぎこちなかった。それでも良かった。110番や119番をかける荒んだ家庭に育ったから、一般的な結婚ができると思っていなかった。だから、自分の稼ぎで料亭に支払いを済ました時は、心は澄んだ正月の空のように晴れ渡っていた。
子供が生まれてからの乾杯はもっと違った。
友人の家族同士の付き合いが増えた。出産や入学の贈り物が増えた。タオルだったり、お酒だったり、お花だったり。乾杯も雰囲気が変わった。子供はジュースで乾杯していた。独身時代には行かなかったイオンとかのショッピングモールに行く回数が増えた。乾杯は優しさや、愛情の一部として交わる事が増えた。
やがて離婚してまた1人に戻った。
独りになると乾杯する意味や、位置づけも変わる。尊敬する先輩はどんどんあの世に逝ってしまい、乾杯は年下の割合が増えた。
時代も変わったのだろう。多様性が求められて、忠誠心を語る様子は見かけなくなった。度数の高くキツい酒で乾杯させられることなどは皆無で、緩くカジュアルな乾杯が増えた。
拠点を福岡に移すと乾杯の数が増えた。明るく陽気な風にあたって性格も明るくなった。陽気な乾杯が増えた。
子供の背が伸びて青年になった。
彼が成人する時の乾杯はどうなるのだろうか。想像した。そうしたら階段を登る子供の細長い背中を見て、幼い彼をおんぶをした頃が懐かしくなった。
いつの時代も過去の美しい想い出は甘美だ。私もやがては目は霞み、髪は細くなり、背は縮むだろう。かっこいい歳の重ね方もあれば、かわいく歳をとる方法もある。どちらにしても自分の歩いてきた道は後悔のしようがない。後悔するとそれは自己の否定になり、その先はなくなってしまうからだ。
乾杯も今までとは違ったおもむきになるだろう。お墓に向かって語りかけた。
「これからは…わかちあう乾杯なのかなと思うんだ」
人生の演ずる役割を考えるようになった。これからは記憶にとどめてほしい話しが増えるのだろうか。酒が弱くなるほど年老いてはいないけど、乾杯は酒でなくなるかもしれない。それでもいい。人は忘れ去られて記憶に残らないことが何よりも悲しいのだから。
これからは、時間を超えた乾杯なんてことができる日はくるのだろうか。例えば映画のように、記憶DATAを映像フォログラムで映して死者とも乾杯することができるような世界だ。それとも人類は遺伝子操作で、完全なる不老不死を手に入れるのだろうか。私にはわからない。
でも、過去と現在と未来は一つの線で繋がっている。その線はどこまでも続いている。価値観も乾杯の形式も変わるだろう。
お墓の前で手をあわせた。いくつもの時代を渡った祖母ならどう思うのだろうか。
電報が電話になって、ラジオからテレビに変わって、戦争に負けて焼野原になって価値観も変わった激動の時代を生きた祖母。あなたは何を感じて、どう思ったのだろうか。
いつしかお線香が燃え尽きて消えようとしている。しゃがんでいた脚も痺れてきた。随分と長い会話を祖母としたように思う。
「ありがとう。またくるね。。。」
手をあわせた。お墓をあとにする。社務所の横から見下ろすと、眼下には陽に光る街並みがキラキラと輝いていた。優しい風が頬を通り抜ける。
「またおこしやす」と声が聞こえた気がした。
いつまでも気持ちは繋がっている。次は子供と墓参りに来よう。わかちあう大切さに言葉はいらない。そして遅いかもしれないけど、いまならわかる事がある。何も言わずに見守ってくれていたけど、心配ばかりかけてきたに違いない。少しは安心してほしいから、空の上にむかって献杯しよう。
風は吹いている。夏みかんの木は“でーん”と立っていた。この木も石段も変わらない。ずっとこのままだろう。長い階段を駆け下りる。
坂を振り返ると空の入道雲が大きくなっていた。上よりも蝉の音が大きい。陽の強さが射し込んでくる。
タオルで汗をぬぐうと、気持ちが軽くなった。
※世界線とは・・・相対性理論で云われる概念で「四次元の時空の中で、ある粒子が動く経路」のこと。
【編集:仲 高宏】
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