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【20200109】言葉をものにする

 最近、何かしら文章を読むときに、今まで以上に観察をするようになりました。そうしたら、「あぁー私って全然【ことば】を知らなかったんだなー」と思わされてばかりで、目がしぱしぱしています。もとから読書量が少ない自覚は十分にあるので、今さら落ち込んだりはしないんですけど、それにしても。

 大学時代、ありがちなんですが「なんとなく英語が好き」という軽い理由で英文科に進学しました。シェイクスピアから英文法から、イギリス・アメリカの現代小説、英語詩、映画みたいなカルチャー論まで、ざっくりと勉強しました。
 そこそこ真面目に授業を受けて、それなりに勉強もするから、成績も平均くらいはキープする。だけど、「もう! これが好きすぎて!」みたいなのめり込み方はしませんでした。授業を受けるのも好きだし楽しかったんですけど、あくまでも「知らないことを知るのは楽しい」の延長線だったんです。

 で、卒業して10年たってみて、今その理由がよくわかりました。私、全然文章読めてなかった。えーと、意味は理解してたかもしれないけど、その文章の味わい方を知らなかった。日本語でもわかってないこと、英語でやろうとしてたなんて、そりゃー無理な話です。

 圧倒的な量不足。10年かけて、仕事やプライベートでいろんな文章を意図的に摂取するようになって、さらに今回自分でも書こうとして、よーくよーく観察するようになって、ようやくこの感覚を得ました。

 私はほんとに感覚人間で、頭で考えてもできるようになれなくて、何回もやってみて体感を得て、はたと気づいたら「そういうことか!」って納得するタイプ。日記を書くのも人と話すのも好きだから、「ことばで表現する」ことへの興味はずーっとあるんですけど、「文章を読む→咀嚼する(味わう)」ということへのしっくりこない理由がわかった気がします。

 自分で使えるようにならないと、理解したって言えない。「わかった!」って感覚になれない。
(ってことはつまり、憧れの小説を本当に味わえるようになるのは、その文章が書けるようにならないと無理ってことだから、私の一生をかけても難しいのかもしれない……)

 ……ここまで書いてもすごい粗いし、もうちょっと考えたいんですが、新たな感覚を得た気がするので備忘録。とりあえず、できる努力としては、量を重ねることだということだけはわかります(遠い目)。

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