【20200122】理由なく泣いたっていい
楽しすぎる一日を過ごして、お金も時間も体力も、今日の使い方は自分として大満足&大正解である!と思った夜の最後に、悲しいお知らせが入ってきた。楽しいところからの落差もあったし、何よりも最近の私は感情の防御フィルター外してる状態なので(なんだそれ)、予期せぬ方向から食らった衝撃が、思いのほかズバンと深くやって来た。帰り道を歩いてたら泣けてきて、家についたら本格的にスイッチ入ったらしく、泣けて仕方なくて、もうほんとに困る。
正直、もう悲しみの対象物とは関係ないところで泣いている気がする。「悲しくて→泣く」とかいう因果関係はどこかでなくなってるのかもしれない。なんかわかんないけど、泣く。泣きたいかどうかもわからないまま、とりあえず声を出す。
冷静になれば、ただの情緒不安定なヤバいやつなんだけど、でも一方で、泣きながら「理由なくたって泣いたっていいよね」とも思っている。
悲しいニュースというのは訃報だったんだけど、正直、私がこんなふうに泣くのはお門違いじゃない?という距離感のお相手だと思う。だから、私がなんでこんなにショックだったのかなって一晩かけて整理してみた。そしたら、たぶん「お世話になった人に、ありがとうの気持ちを伝えられてない」ってことが、私はすごくやるせないんだと思った。「お世話になった=優しくしてもらった」かもしれない。
優しい人がただそのままで優しくいられるわけがなくて、その優しさの後ろに悲しみとか苦しみを抱えてる。大変なこともあるけど、それでも優しさを表現することを選択したんだろうと思うんです。
ときには簡単じゃないこともある。優しくしないことも選べる。でもその人は、優しさを人に渡すことを選んだ。その尊さを思うと、「何をただ楽ちんに嬉しくなってんだ、私のバカ!!」って気持ちになって、私の自己満足でしかなくても、「その優しさに私は救われました」って言わなきゃいけないって思うんです。
それで今回は、そういう私の気持ちをちゃんと伝えられなかった自覚があって、もしかしたら伝えられたかもしれないのに、そして心の準備をするチャンスもあったかもしれないのに、私はノーテンキにそれをスルーした。その悔しさとやるせなさが、どうにも解消しきれなくて、とりあえず泣くっていう行為でなんとか消化しようとしたのかなぁと。
あとは、「当たり前の明日は保証されてない」って現実をばーんって突きつけられたようなショックもあったと思います。驚きすぎると涙が出たりしますが、そういう感じ。
すごく満足のいく選択をした一日だったんです。自分のためにノートに日記を書く時間を確保して、姉の誕生日をお祝いして、お笑いライブに行った。そのどれもが「行こうかな、どうしようかな」って迷った結果、「やっぱり行きたい」って選んだものでした。そのひとつひとつの選択が、自分が納得できるものか問われてるんだってヒヤッとしました。
「今度でいいや」と思って選ばなかったこと、次があると思って安心してない? 目の前に並んだ選択肢、ぜんぶ今しかないって真剣に選べてる?
365日ずっと一生をかけて、こんな過ごし方ができるかはわからない。だけど、2020年1月の私はそれを実践しようと思って過ごしてるんだよね? ねぇ、本気でやってる?って聞かれたみたいな。
あいかわらず好き放題に書いてますが、どうか私が、自分の悲しみを自分のものとして消化しきることができますように。それぞれの人にそれぞれの生き方があって、悲しみがあって、理由があって、そして理由がなくていい。
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