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【20200227】私が甘えたかったのは、両親でした

 今回は「30歳を過ぎて、遅すぎる反抗期をやりました」というお話。いつも以上に個人的な内容で、しかもちょっと長いし、読んだところでまったく楽しい話ではないのですが、この半年間でお世話になった人、迷惑をかけた人たちに対して、どこかでちゃんと説明したくて、ここに書いてみることにしました。半年間のまとめレポートというか、こんなところに着地しました、というご報告です。


半年間の結末

 さくっと結論から言うと、「自分探し」みたいな半年間の時間を経て、私は「人に頼ってみたい」のだと気づいたと思っていたら、結局のところ私が一番やりたかったのは「親に甘えること」でした、という話です。

 去年の夏に仕事をやめて、自分と向き合ってみたくて引きこもりました。こんなに長くなる予定じゃなかったので、当然のことながら資金が尽きました。途中、クラウドファンディング的な支援をお願いしたり、なんとかかんとかしてきたのですが、2月になってどうにもならなくなりました。

 どうにかするつもりだったけど、もう駄目だと思って、2月後半のある日、知り合いの人たちにお金を借りるお願いをすることにしました。がっかりされるなとか、もう会えなくなるかなとか、悩んだけれど仕方ない。それが私がこの半年間選んできたことのツケなんだからあきらめよう。だって、そうせざるを得なかったんです。今まで通り、人の顔色うかがって笑いながら働いて、あと何十年もやっていく選択肢は私にはなかったんです。だから、仕方ない。

 何人に連絡させてもらったでしょうか。今の自分の現状を説明しながら、連絡をし続けていたら、深夜になって「私はここまで人に迷惑をかけないと生きていけないのか」と泣きたくなりました。それで「それでも、後悔がないように選んできた結果なのだから」と思ったとき、自分の中にしこりがあるのがわかりました。両親のことです。もし明日私が死ぬとしたら、ほんのちょっとだけでも後悔するかもしれない、と思いました。半年前に仕事を辞めたことは、両親に伝えていませんでした。お正月に帰省したときも、いつも通り振る舞いました。それまで、両親からお金を借りるという選択肢は私にはありませんでした。だけど、たくさんの人に迷惑をかけさせてもらってようやく、親にすべて伝えようという腹が決まりました。

 翌日の朝に、まず父に電話をしました。非常事態に弱くて、すぐパニックになってしまうので、どうやって話したものかと思いながら、できるだけゆっくり、正直に話しました。「なんで半年間休んだんだ?」という父の質問に、「子ども時代のことも含めて、人生の棚卸しをしたかったのだ」と答えました。自分の本音を見つけるのに、半年間かかったんだよ、と。しゃべりながら泣けてきて、自分でも訳がわからなくなりながら話していたら、予想外に父は落ち着いて聞いてくれて、お金も借りれることになりました。そのあと母にも電話して、同じく泣きながら話しました。両親がパニックにならずに話を受け止めてくれた驚きと、お金が借りれることになった安心感とで、泣きじゃくりながら両親との電話を終えたら、肩の力が急に抜けて、放心しました。

 そして、私はずっと親の前で泣きたかったらしいことに気づきました。「助けてよ!」って思いっきり泣いて、思いっきり甘えたかった。どうしたらいいかなって相談したかった。ねぇどう思う?って気軽に話をしてみたかった。こんなに遠回りをして、たくさんの人に迷惑をかけて、どうやら私がやってたことは、小さな子どもが駄々をこねて大泣きしてるのと同じでした。それに気づいたときの恥ずかしさといったら。だけど、そんな感覚に気づくこともできないくらい、私はずっと長い間、親への恨みを握りしめていて、その反骨心を支えに生きていたところがありました。

 この電話をかける一週間前、10年近く書きためていたノートを捨てたんです。その中には、子ども時代のつらかったことがたくさん書いてありました。自分の心からそういう悲しみを解放するために書いてたつもりが、実は恨みを握りしめてたのかもしれないと気づいて捨てたんですが、その見えてなかった親への恨みを認識できたから、ようやく素直になれたんだろうと思います。

 これまで一生懸命に築いてきた人間関係を手放す覚悟をしてまで、私が欲しがってたものが、親に甘えることって。あまりに幼稚で、シンプルすぎて驚きで、そして情けなさすぎる。10代の私に聞かせたらマグマ大噴火だろうし、数年前の私でもプライドが許さなかっただろうと思います。30歳を過ぎて、遅すぎる反抗期をしました。こんな年になって?って恥ずかしさを通り越して呆れかえっていますが、だけど、たぶん私にとってはこれがベストタイミングだったんです。実家を出て14年、社会人になって10年。半年間のお暇期間を経て、ようやく受け止められるようになった。情けないけど、私にはそのくらい時間が必要でした。


子ども時代のこと、つれづれ

 私の父は高校教師で、母は専業主婦でした。部活動の顧問に精を出して土日はつねに外に出ずっぱりの父と、病弱で動けない母。夜はケンカが多く、怒鳴り声が飛び交う。ヒステリーで半狂乱のようになったあと、動けなくなった母をそのままにして、ふてくされた父が車でどこかに出かけてしまう。残された小学生の姉と私で、母に薬を飲ませて動けるようになるまで背中をさする。べつに毎日のことではありません。だけど、これだけ記憶が残っているということは、それなりに頻繁に起こっていたんだと思います。

 いつも学校から帰った私は、布団で寝込んでいる母の部屋をそっとのぞいて、「ただいま」と声をかけます。その日の調子によって、声が返ってくることもあれば、動けなくて眠っていることもある。そのまま夕方まで友達と遊びに外に出かけて、帰ってきて母が台所に立っていなかったら、部屋をのぞきに行って、晩ごはん作りを手伝います。

 母自身が、子ども時代の祖父母への恨みをずっと抱えて生きているところがあって、スイッチが入ったときには、永遠に続きそうな母のグチを聞きながら食事をします。いつからか、相づちを打つのも面倒になって、耳から耳へ適当に聞き流して、向こうに流れるテレビのニュースを聞きながら食事をするようになりました。

 家の中に引きこもっているので、母に近所づきあいはできません。自治会のような活動は、父ができる範囲でやっていたのだと思います。変な家に思われたくないので、近所の人に挨拶するときは、なんだか自分が家族を背負っているような緊張感が走ります。

 もちろん、同級生の保護者の人たちとの交流などもありません。同級生が当たり前に知っている地域のニュースは、我が家には入ってきません。参観日や運動会などのイベントもほとんど来れません。親に渡す連絡事項のプリントに目を通して、必要な情報は自分で見つける癖がつきました。習い事など、親のつきそいが必要なことは基本的にやれません。買い物はすべて通販で、休みの日にお母さんと洋服を買いに出かけた友達の話を聞いては、諦めつつも心のどこかでうらやましく思っていました。

 私は私で、幼稚園の頃から全身がアトピーで、毎日がかゆみとの戦いでした。今から思えば、アトピーが先だったのか、家庭内のストレスでアトピーだったのかわかりませんが、かゆみは私の心をマヒさせるには十分で、毎日必死にかゆみと戦っていれば、時間が過ぎていきました。また、私のアトピーの症状が、両親の精神的負担になっていた部分もあると思います。

 お盆とお正月に、父方の祖父母宅に親戚が集まるときも、なかなかに緊張しました。「けいちゃんのアトピーの調子はどうなの?」たとえ気遣いから発せられた言葉だとしても、世間話みたいに安直に話さないでほしい。緊張感の走る嫁・姑の間柄を横目に、たくさんの大人たちの集団の中で、いかに空気を読んだ子どもになるか。そんなことばかりを考えていました。

 両親がいつも必死で、余裕がないのは一目瞭然でした。なんでうちはこんなに大変なんだろう。周りの友達の様子を見ても、テレビドラマを見ても、やっぱり我が家は大変すぎる家庭にしか思えません。自分が育っている環境が「ふつう」じゃないことは私の引け目となって、「どうやってふつうでいるか」と人の目を過剰に気にするようにもなりました。

 母の親へのグチを聞いては、父の親・親戚とのアンバランスな関係性を見ては、こうやって家系の悲しみは連鎖してしていくんだなーと思っていました。そして、そういう悲しい気持ちは、私の代で断ち切らないといけないと思うようになりました。どれだけ目の前でケンカが繰り広げられていようと、それはもうこの家の中で終わらせよう。家の外に一歩出れば、気持ち次第で明るくて楽しい自分になれたし、とにかく早くこの家を出て、いつか私は私のための明るくて笑いが絶えない家族を作ればいい。いかにポジティブに切り替えるかが命題の日々だったので、反抗期をするタイミングも逃してしまいました。

 そんな日々が積み重なって、私はどうやって自分の正直な気持ちを両親に伝えたらいいのか、わからなくなっていたのだと思います。そして、話を聞いてもらうことを諦めてしまったのだと思います。毎日をくりかえすのに必死すぎて、いつも何かに必死な両親に向かって「私の話を聞いてよ!」と地団太を踏めるだけのエネルギーは私に残っていませんでした。いつからか私にとって両親は、頼ったり相談に乗ってもらう対象ではなく、私を育ててくれている人で、血縁だから仕方なくつながっている存在になっていました。

 地方から出て東京の大学にまで行かせてもらって、金銭的な苦労をしたことはありません。私が望んでいた形ではなかったけれど、愛情をもって育ててもらったという自覚もあります。だけど、やっぱり当時の私は、心の底から安心したり甘えたりできてなかったんじゃないのかな。無意識だったけれど、周囲に気を配りながら生きることは苦しくて辛くて、「とにかく早く家を出たい」という気持ちだけで中高生時代は乗り切ったような気がします。実家を出てからの私は、とにかく子ども時代の不足感を埋めようと必死でした。旅行に趣味に遊びまわって、仕事もいくつか経験して、誰にも邪魔されずに自分の世界を広げられる喜びを味わって、あぁ私の人生これでいいんだーなんて思ったりしてたわけですね。


そんなこんなで

 で、20代を好き勝手やって満足して「子ども時代なんて乗り越えたぜ!」って思いたかったんですけど、実はめっちゃくちゃ親への恨み握りしめてました、自分の感情にフタしまくってました、自分探ししちゃいました、冒頭に至る……というお恥ずかしい話です。

 実家を出てからも毎年、お盆とお正月には帰省してましたが、別に話したいこともないし、なんて思ってました。父は退職してずいぶんと落ち着いて、母の体もずいぶんと良くなって、子ども時代のような荒々しい日々はなくなりました。それでも、私の悩みを受け止めてもらえる気がしなくて、3回くり返した転職はいつも事後報告。非常事態に弱い二人がパニックにならないように、面倒な話題はできるだけ避けて避けて、「でもまぁ、家族といえども他人だし」なんて、親子関係なんてこんなもんだって思ってました。

 こうやって振り返ってみると、私は親とのコミュニケーションをすっかりあきらめていたのだなと思います。簡単じゃないけど、理不尽だと思うけど、でも閉じこもっていても解決にはならない。さじを投げていたのは私でした。どんだけ辛かろうが、私は親に向かって「なんで私の話を聞いてくれないの?」ってちゃんと叫ばなくちゃいけなかった。たとえ理解されなくても、伝える努力をしなくちゃいけなかった。ものすごく遠回りをしたけれど、そしてものすごく人に迷惑をかけたけれど、そのことに自分も両親も生きてるうちに気づかせてもらえたのは、ありがたいことだなぁと思います。

 子ども時代の話はもう20年以上前のことで、都合のいいように記憶が書き換えられている部分もあると思うのですが、「なんでそんなに親への葛藤があったの?」っていう理由が、少しでも伝わるといいなと思って、書いてみました。悲劇のヒロインにならないように意識したつもりですが、もしかしたらまだ恨みがこもってるかもしれない。読んで嫌な気持ちにさせてしまっていたら、ごめんなさい。そして、書いてみたはいいものの、つじつまあってる……?意味不明かもしれない。

 半年間かけて、いろんな形で「恥ずかしさ」を乗り越えてきたつもりなのですが、まだ恥ずかしい気持ち、全然残ってました。でも、こんなにまるっとさらけ出せたのは、半年間のすべての体験があったからです。この話と同時並行で、謎の「度胸だめしチャレンジ」を10日間やって、ようやく小説を書き始めることができて、本当に半年間の「やりたいことをやる」をやりきれた気持ちになりました。引きこもって、ポエムを書き始めて、タロット占いを始めて、深夜に歌って、小説を書いて。もう、ほんとに空っぽ。全部出し切った気がするので、ここから再スタートします。

 あらためて、私の、無謀で、意味不明で、大迷惑な半年間を見守ってくれたすべての方に感謝を。もし、ほんの少しでも、この日々があなたの刺激になっていたら、そんなに嬉しいことはありません。ほんとうにありがとうございました。


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