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【20191227】そこにいるだけで表現になる?

(ボヤッと考えたことを、ボヤッとしたまま書きます)

 子どもの頃からテレビを見たりマンガを読んだりして、ずっと「表現する側」と「受けとる側」があると思ってたんです。それらは完全に別の世界で、二つの世界の間には大きな境界線が存在しているんだと。だけど30歳をこえて、それは違ったんだなーと思うようになりました。

 私、小学生の頃から体育が苦手で、人生の50メートル最高記録が10.5秒とかなんです。それって陸上選手にはもちろんなれないけど、「イコール走れない」ってことじゃない。遅くたって私のペースでなら走れる。楽しむこともできる。「走れる人」と「走れない人」がいるんじゃなかった。「プロレベルで走る人」と「自分のペースで走る人」がいるってことだった。

 書いてみたら「そりゃそーじゃん」って感じなんですけど、「表現」することに関して、なぜか「特別な才能を持った人」にだけ許された行為だと思い込んでいたんです。よっぽどハードルを高く見積もっていたのか、よっぽど自己肯定感が低かったのか。

 とにかく、ようやくそれに気づいたので、「私でも書けるかも! 書けるんだったら書いてみたい!」と思えるようになったわけです。プロレベルを目指したいのかすら謎だけど、自分のペースで表現することを始めてみようと。

 で、ここからがこのところ考えてることなんですが、「表現とはなんぞや?」という話。

 社会人になってから特に、いろんなエンタメに意識的に触れるようになって、歌うことも、踊ることも、文章書くことも、絵を描くことも、とにかくあらゆる表現というものがつながっていることは体感的にわかるようになったんです。脳みそなのか心なのか、もっと違う部分からなのか、とにかく目に見えない何かのインスピレーションを、目に見える形に実在化させる。

 その手段が、ある人にとっては演劇であり、ある人にとってはロックバンドであり、ある人にとっては油絵だったりする。だから、演技だけじゃなくて歌ったり絵を描いたりする俳優さんがいるけど、それってとても自然なことなんだと。

 で、クオリティやレベルを問わなければ、誰でもいつでも表現することはできる。のだとしたら、すべての人が、もうすでに表現者なんじゃないの?って思ったんです。どんどんハードルを下げていったら、あらゆる行為が「表現」と呼べるんじゃないの?って。
 
 好きなものについて語ること、やりたいことに時間を費やすこと、大事なことにお金を使うこと、すべてがその人にとっての「表現」。

「好きなもの別にないんです」とか「特にやりたいこととかないんです」って言う人も、一日24時間あって、何かしらに時間を割いて生活してるわけじゃないですか。それがきっと、その人の「表現」なんだなって思ったんです。テレビを見るのでも、寝るのでも、友達と会うのでも、仕事するのでも、なんでも。

 つまり、何かしなくたって、そこにいることがすでに「表現」になるんじゃないのって思ったんです。

 家でぼーっと何もしない人は、家が好きってことなのかもしれない。カフェでぼーっとしてる人は、きっとカフェの空間なのかコーヒーが好きでそこにいるはず。外に出て公園でぼーっとする人もいる。朝起きてぼーっとする人もいれば、深夜にぼーっとする人もいる。何もしてなくたって、この世にただ存在してるだけで、場所とか時間とか勝手についてくるわけで、それが勝手にその人の表現になってるんじゃないのって。

(話がズレてきた。表現っていうか、私の考え方の前提に、人はどうやって好きなものや人生の目的を見つけるんだろう、みたいなことがあるのかもしれないです)

 あと、またちょっと別の話になるんですが、何かが「表現された」とき、それは誰かが「受けとる」ことによって成立する面があるよね、というのも考えていて。えーと、うまく抽象化できないのでまんまの事例で。

 毎週生配信をするインターネットテレビでお仕事をしていたとき、ありがたいことに視聴者さんたちがすごく積極的にリアクションをくれてたんです。メールだったり、Twitterでの感想だったり。もちろん出演者さんの人気のおかげだったり、企画として参加するのを楽しんでくれてたり、いろんな要素があったと思うんですけど、とにかく、それまでの私の認識では「受けとる側」である人たちによって、確実に「表現する側」の意識やクオリティも影響を受けたんです。あぁ、「受けとる」ことは、「表現」に参加することになるんだなぁと思いました。

 最近、あらためて「好きなものにちゃんとお金を落とせる人になろう」みたいなことを考えていて、これってちょっと近い話なんじゃないかと。本を買って読むことは一方的な行為だけど(私が読んだところで、著者の方には直接的には何の影響もない)、そこで発生した印税が著者のもとに入ることによって、「受けとる」側の読者の私も「表現」に参加したと言えるんじゃない……?みたいな。無理があるかな。お金を媒介して「表現」に参加してる。本を買うことも「表現」になる。 

 ……書きたいこと、書けてるのかな。自分でもまだ煮詰まってないと承知しつつ、とりあえず今の思考の記録として。深夜かつ年末テンションで失礼しました。 

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