楽譜の歴史
以前の投稿、「リュートを作る人と呼ばれて」で
「中世初期では彼ら吟遊詩人は音楽や歌詞、物語を口伝で伝えていたため楽譜は残っておらず、14世紀頃になってタブラチュアという弦のどこを押さえるかを記述した違う形の楽譜が生まれた」
とお話ししました。
そのタブラチュアとは何か、音楽中辞典によると・・・
タブラチュア tablature[英] 記譜法の一種。音符を使用せずに文字や数字や記号を用いて、楽器の奏法を示す。ヨーロッパでは15世紀から17世紀にわたって盛んに使用されたが、その中でもオルガン用、リュート用のものが重要。今日でもウクレレ、ツィター、あるいは日本の琴、尺八などの譜はタブラチュアである。
音楽之友社:「音楽中辞典」
Sancta Trinitas : Vincenzo Capiroli (ca. 1540)
現代ではギターのタブ譜が有名ですが、邦楽器の楽譜もタブラチュアの内に入るんですね。
三絃譜 「春景八景」
ということで、タブラチュアを含め、楽譜が作られ発展していったあらましを簡単にお話して行きたいと思います。
タブラチュア
タブラチュアの初出版は1507年にフランチェスコ・スピナチーノ(Francesco Spinacino)が出したリュート曲集です。
Intabolatura de lauto: Francesco Spinacino , A 3 (1507)
横線がコース(弦)を表し、数字が押さえるフレットの位置を、数字の上に書いてある記号が音の長さを表しています。
現代の記譜法による音符で例えると、音の長さを表す記号は符幹(ぼう)と符尾(はた・符鉤)で、符頭(たま)のところにフレットの番号が書いてあるわけです。
音符の部位の名称
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ちなみに、リュートは弦の数が決まっているわけでは無いので、いろんな弦数の楽器があります。このタブラチュアでは横線が6コース(11弦)の表記ですが、それ以上コースがある楽器の場合は線の外側に数字を追加して書かれます。
この記譜法は14世紀頃には完成して広まっていた様です。そうでなかったとすれば、この本を出版したとしてもスピナチーノ本人以外は演奏法がわかりませんから意味がありません。
まあ演奏法が想像がつかなくもないですし、この曲集の初めの項には説明が書いてあったりしますので、知らなかったとしても演奏は可能ではあります。
Intabolatura de lauto : Francesco Spinacino , A 2
時期的にも1450年頃にグーテンベルクが活版印刷を発明しましたし、同様に図表も凹版印刷で行い始めていましたから、1500年には出版が容易になっていたのもこの頃に曲集が出た背景でしょう。
「グーテンベルク聖書」と呼ばれる最初の印刷聖書
「四十二行聖書」の冒頭、ヒエロニムスの書簡:1455年
また、楽譜を見ながらリュートを演奏している15世紀末の絵があります。
Lorenzo Costa (1460-1535) A_Concert c1485-1495
残念ながらこの絵の楽譜がタブラチュアなのか、それ以外の楽譜なのかまではわかりません。
とにかく、スピナチーノが出版したおかげでヨーロッパにより広まったのではないかと考えられています。
タブラチュアはヨーロッパ各地でそれぞれ発展していて、大きく分けて「イタリア式」「フランス式」「スペイン式」「ドイツ式」の4種類の違う記譜法になりました。
この中で特に主流になったのはイタリア式とフランス式でした。
イタリア式は鏡で見たように書く記譜法で、高音弦が下の線で低音弦が上の線です。そして、押さえるフレット位置は数字で書いてあります。上述のスピナチーノのタイプですね。
フランス式は横線がイタリア式の逆で、現代の楽譜のように高音弦が上の線で低音弦が下の線です。そして、押さえるフレット位置はアルファベットで書かれています。
Renaissance French lute tablature "Branle de Poictou".
さてこのタブラチュア、奏者が楽器を演奏する時にはとても分かりやすいのですが、その楽器が演奏出来ない者からするとどんな曲かを想像するのはなかなか難しいです。
そのためか、「音楽を書き残す」ということだけで考えたときにはあまり向いていません。なので各楽器演奏のためにギターやオルガンなどで残されてきましたが、一般的にはなりませんでした。
逆に今の5線の楽譜はある程度音楽の素養がある者はどんな楽器を使用する者であっても曲が分かる仕組みになっています。
ネウマ譜
現在のように音楽を記述する楽譜はどこから生まれたのか。
その起源は「ネウマ譜」だと言われています。
ネウマ neuma[ラ] 記譜法の一種で主に聖歌の記譜に用いられた記号。これによる楽譜をネウマ譜とよぶ。・・・
音楽之友社:「音楽中辞典」
ネウマとはギリシャ語で「合図、身振り」という意味であり、合唱を指揮する際の手の合図のことを指していました。
「聖歌」つまり歌を記したものですから、演奏法というよりも声(音)の高さや間(長さ)の取り方を記録したことになります。つまり、結果的に音楽そのものを残すことになるので、この記譜法が発展して現代譜になっていったわけです。
実は古代ギリシャには声楽と器楽においてそれぞれの記譜法がありました。その一つに、東方諸教会の聖歌『三位一体の聖歌』の上に音高を文字で記すギリシア記譜法がオクシリンコス・パピルスで見つかっています。
オクシリンコス・パピルスの一部
ところが、聖歌自体は昔から使われていましたが、その記譜法が中世にはほとんど途絶えてしまいました。そして、再度楽譜的記述が現れるのは9世紀頃からと言われます。
ギリシャの記譜法が失われていた中世では「音楽は消えてなくなるもの」という考えになったので、長らく「記録する」と考えられなかったようです。
Sant' Isidoro di Siviglia dice espressamente che la musica non può essere scritta: "se i suoni non sono appresi a memoria dall'uomo, scompaiono, perché non si possono scrivere"(De musica, c. XV:PL 82, col 163.)
(セビリアの聖イシドールは、音楽は書くことができないとはっきりと言っています。「もし曲を人が記憶しないなら消えるだろう、なぜならそれは書くことができないためだ。」)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
※聖イシドールは7世紀のスペインのカトリック神学者、作家、大司教
これを裏付けるように8世紀以前のミサの作法などが書かれた典礼書には聖歌の歌詞しかなく、楽譜的な痕跡はありませんでした。
その後の9世紀ごろになって、典礼書に手による記号の書き込みがされた跡が見つかっています。
そうして、10世紀頃には歌詞に書き足したメモではなく、はっきりとした楽譜的な内容が書かれるようになりました。
Codex Sangallensis 359
単語の間隔がまちまちなのは記譜を行うことを前提としたものだからです。
この楽譜はミサ中に持ち込んで見ながら歌うという風には使用していなかったようで、聖歌隊に歌を教える時に用いられたと考えられています。
聖歌が歌われるミサの時には全員歌を覚えている(覚えていないといけない)ので、中世では現在のコンサートのように楽譜を見ながら歌う(演奏する)ということが無かったようです。
つまり、ネウマ譜というのはもともと「演奏するためのもの」と言うよりは「コーラス隊に教える時の覚書」みたいなものでした。
それに、初めの音がどれぐらいの高さかなどはわからず、客観的な決まったルールがあったわけでもないので、書いた人物以外がそれを見て歌うことは困難でした。
このような記譜法はヨーロッパ各地で様々な方法が考案されましたが、個人の主観的な覚書であり、客観的な決まった高さを示す譜表(横線)を使った記譜法は10世紀以降になります。
アンティフォナリウム序説
10世紀になると、1本の線を引きその上下にネウマを配するという方法が現れました。
そしてはじめは1本だけだった線が、曲によって数が増えたり減ったりして行きましたが、グイード・ダレッツォ(Guido d'Arezzo:991年または992年 - 1050年)が4本線の記譜法を完成させました。
(余談ですが、昔の音楽史の本には「ギドー」と書いてあって、見返した時に誰の事かわかりませんでした。なんでそんな呼び方?)
Guido d'Arezzo
彼はどんな楽曲を表記する場合にも同じように使える記譜法を作り、それを説明した音楽教師向けの実践的なテキスト『アンティフォナリウム序説』を書きました。
楽曲の記憶を補助するこの優れたテキストは人気となり、多くの写本が作られ、グイードの音楽指導法は高く評価されました。
アンティフォナリウム序説(18世紀の写本)
1028年、グイードは当時のローマ教皇ヨハネス19世の前でその指導法を披露するなど、カトリックではこの記譜法が標準となっていきました。
ちなみに、『アンティフォナリウム序説』でグイードは「ドレミファソラシ」の階名を考案しています。
(これ、「チコちゃんに叱られる!」でもやってましたね)
「聖ヨハネ賛歌」は、第1節から第6節まで、その節の最初の音はそれぞれC-D-E-F-G-Aの音になっており、それぞれの冒頭から「Ut Re Mi Fa Sol La」という階名が作られた。Utは現在でもフランスでは使われているが、発音しにくいため「主」を示すDominusのDoに変更され、世界中で広く使用されている。後に「聖ヨハネ賛歌」の最後の歌詞からSiが加えられ、現在使われている「ドレミファソラシ」が完成した。
ヨハネ賛歌
Ut queant laxis
Resonare fibris
Mira gestorum
Famuli tuorum
Solve Polluti
Labii reatum
Sancte Iohannes
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ここまで進みましたが、まだこの段階では音符は音の高さ・低さを表しただけで、リズムを表す機能までは持っていませんでした。
10世紀頃からポリフォニーが使われ初めましたが、その頃のものはそれほど複雑ではなかったため、いくつかのリズムパターンを決めることで歌手がリズムを読み取るという方法で十分だったようです。
ネウマ譜でも後に音価(音の長さ)を使うようになりますが、5線譜が出来た時にネウマ譜は一般的には廃れていきます。
しかし、キリスト教の中では長らくネウマ譜を使用しており、現代でも使用しています。
伝統というものは守ることが重要であったりしますから、大きな問題が無いのならそのまま使われていくものなのでしょうね。
モーダル記譜法
ネウマ譜が譜表(線)を使うようになって、ある程度音の高低がわかるようになりましたが、まだ音価(音の長さ)ははっきりしていません。
これは、もともとネウマ譜がコーラス隊に歌を教える時の歌詞に付随した指示書的な意味合いを持っていた、つまり歌を知っている人が読む譜だったことも原因だったのでしょう。
そんななか、12~13世紀にかけてパリのノートルダム寺院を中心に活躍したノートルダム楽派と呼ばれる作曲家たちが、リズムを6種類のパターンでまとめて音符を線でつなげて表示するという「モーダル記譜法」という方法を思いつきました。
Alleluia nativitas : Pérotin
しかし、何度も言うようですが、ポリフォニーが複雑化していくと他の声部とタイミングを合わせなくてはいけません。
画期的とは言え、モーダル記譜法だけではうまく合わなくなることもあったり、原理そのものも曖昧だったりしていたので、より明確にそれぞれの音の長さを表現しないといけなくなってきました。
そして、13世紀に個々の独立した音符の長さが見ただけでわかるようにするという方法が生まれます。
定量記譜法
13世紀の中頃、ケルンのフランコ(Francone da Colonia)が「計量音楽論」(Ars cantus mensurabilis)という文書の中でより明確に記譜法を定義して説明しました。
「フランコ式記譜法」と呼ばれるその方法は、Longa(ロンガ:長い)、Brevis(ブレビス:短い)といった四角い音符で構成され、休符は縦線を使って表現する方法です。
しかし、この音符には同じ表記でありながら長さが違うものも存在し「2つ続くと始めの音は長い」とかそれらの定義などもあるのですが、現代譜からするとまだまだわかりにくい状態です。
これが14世紀に入るとSemibrevis(セミブレビス:ブレビスに準ずる)、Minima(ミニマ:最小)などが加えられていき、よりリズムが複雑化していきます。
新造文紀 著:「教養のための音楽概論」P.16
この頃の音符は黒い四角で表現され、「黒符定量記譜法」と呼ばれていました。これは羊皮紙に書くときに葦ペンなどの幅広のペンで容易に書けるからではないかと想像されます。
アラビア書道におけるカラム(乾かした葦から作られるペン)
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特に当時は人の手で写本していましたから、簡単に書けるほうが残されやすかったですし、写本する人が勝手に簡略化する場合もあったでしょう。
それが、15世紀半ばから16世紀にかけてからは白抜きの音符による「白符定量記譜法」が中心になっていきます。
それは音楽が発達し多くの音符が必要になってきたこともありますが、グーテンベルクの活版印刷技術の発明に伴って紙の品質が良くなっていき、インクの乗りが良くなって白抜きで書いても滲んだり潰れたりすることがなくなったことも背景にあるでしょう。
新造文紀 著:「教養のための音楽概論」P.17
この頃になると譜表も五線譜を使用するようになり、かなり現代の楽譜に近くなるのですが、まだ小節という概念は乏しく、まとまりのないリズムの流れをとることになります。
また、音符も2分割(例えば現代で言うところの2分音符1つ=4分音符2つ)だけではなく3分割(例えば2分音符一つ=4分音符3つ)の場合もあり、曲を知っている者でないと正確に理解することが困難な場合もありました。
それが15世紀ごろになると音符は2分割に統一される様になり、丸い音符が現れたり小節がはっきりするようになってきて、現代の五線譜へとなっていきました。
これにはイタリアのオペラ界で音楽による楽譜の違いを統一し、煩雑さを無くそうとする動きが出たからとも言われています。
ところで、譜表がなぜ五線になったのかは、
人間の視覚と脳神経感覚が瞬時にはたらきうる限界の本数で、これ以上の本数だと読譜が困難になる。
逆に少ないと加線を多く使うようになるので読譜しにくいし、見た目が悪い。
五線に書ける音域は11度で、この音域が歌の旋律をうまく収めることが出来る数だった。
といった理由からではないかと言われています。
余談ですが、譜表が11本で2声部を表現していたものもあったそうです。
現在の譜表はト音記号の高音部とヘ音記号の低音部それぞれ5本で、加線で中心のド(中央ハ)の音を表しますから、2声部をト音記号とヘ音記号で表せば、ある意味11本線があるのと同じ表現ですよね。
異なる音域での中央ハ(C4)
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音符が四角から丸に変わったのは、やはり書きやすさからだったのではないでしょうか。
白符定量記譜法になって全音符などが白抜きで書かなければならなくなったので、葦ペンなどでは書きにくくなりました。
かと言って羽ペンなどの先の尖ったペンで四角を書く場合はいちいち角を書かなくてはいけないですから、素早く書いていくと自然に丸くなり「それでいいじゃん」となったのではないでしょうか。
初めに紹介したタブラチュアはこの頃に出来たものですので、記譜法が似ているのはこの記譜法を応用したからでしょう。
こんな感じで、その他の記号や記譜法もそれぞれ追加・削除されていって現代の楽譜へと変遷していきました。
バロック時代ではほぼ現代と同じ記譜法になりましたが、バロック時代初期のフレスコバルディ(Girolamo Frescobaldi (1583-1643))なんかは6線と8線の楽譜を書いたりしています。
Toccate II (1637): Girolamo Frescobaldi
五線記譜法以後
現在一般的に使用している五線記譜法が全く矛盾がないかと言われるとそうでもなく、線を隔てた音の間隔は全音である場合と半音である場合があります。
上図のハ長調の場合、ミとファの間とシとドの間は半音、その他は全音である。
こういった矛盾を解消するため、12音技法を表現するクラヴァールスクリボという記譜法が考案されました。
クラヴァールスクリボで書いたエリーゼのためにの冒頭
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また、ドレミファソラシといった決まった音以外の中間的な音や、なめらかに変化するリズムなどは五線記譜法では表現しきれないので、現代音楽における絵のような図形譜なども生まれましたが、結局五線記譜法に取って代わるものとはなりませんでした。
John Cage : Tánger 02
Toshi Ichiyanagi : Music for Electric Metronomes
図形譜に関しては、五線記譜法では表現しきれないからこそ生まれたものではありますが、逆にその曲以外で応用が利かないといった側面もありますね。
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楽譜の歴史はかなり複雑かつ膨大な情報がありますので、今回ご紹介しきれなかった事がたくさんあります。
もちろんすべてを把握しているわけでもないので色々漏れもあると思いますが、ざっくりとこんな流れで出来てきたことは感じていただけたのではないでしょうか。
楽譜の発展には、紙や印刷技術、文房具などの技術の発展も背景として大きく関与していました。
今では簡単に安く手に入る紙ですが、昔は高級品でしたから楽譜一枚書くのも一苦労。あたりまえですがみんなで共用したり、支配階級などしか手には出来なかったでしょう。
そう考えると100年単位で発展していったのも当然と思えます。
出典・参考文献
Francesco Spinacino:Intabolatura de lauto
音楽之友社:「音楽中辞典」
全音楽譜出版社 真篠将 編:「音楽史」
教育芸術社 千蔵八郎 著:「音楽史(作曲家とその作品)」
青山社 新造文紀 著:「教養のための音楽概論」
Wikipedia
タブラチュア
三味線
Francesco Spinacino
音符
ヨハネス・グーテンベルク
ネウマ譜
オクシリンコス・パピルス
Oxyrhynchus hymn
Neuma
Guido d'Arezzo
グイード・ダレッツォ
カラム (筆記具)
中央ハ
記譜法
図形譜
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