人生の棚卸しで丸裸!
人生の棚卸しをすることで、自分の生きる目的(信念・理念)が見えてくると聞き、同じセミナーを受講している方達に手伝っていただき、自分の過去と向き合いました。
人生の棚卸しとは、自分が嫌だと思うことや楽しかったことなど思い出せることを全て出していくと言う作業を言います。
その中で自分が嫌だったこと、思い出したくない過去と向き合うことで自分の生きる目的が見えてくというものです。生きる目的があれば壁に当たった時でも乗り越えることができると言われました。
長文&私の過去のダークな部分がほとんどなので、気持ちが落ち込んでいる方はさらに落ち込ませるかもしれません・・
それでも読んでくださる方は、先をお進みくださいね!!
〈幼少期〉
子どもの頃から繰り返し父親から言われた「そんなこと言うたら笑われる」と言う言葉がずっと私を苦しめてきまっした。この呪いの言葉のせいで、自分の気持ちを話すことが出来ない子供時代を過ごしました。大人になった今でも自分の気持ちを話せない時があるほどこの言葉にとらわれています。子供の頃は人と一緒じゃないと不安で、みんなと違う意見は間違いだと思い込んでいました。授業中に手を上げることも苦手で、人前で話をすると思うと自分の順番が近づくたびにドキドキが大きくなり人に聞こえるのではないかと思うほどでした。
今考えると父親と意見が違うとこの言葉で子供をコントロールしていただけなんだと思います。
母は保育士をしていて仕事でも家庭でもいつも忙しく寂しかったのを覚えています。母親の帰りが遅いと「事故に遭ったんじゃないか」「もう帰ってこないんじゃないか」と心配になっていました。
小学1年生ごろに母親に「保育園の子じゃなくて自分を見てほしい」と手紙を書いたことを憶えています。
〈小学生〉
自分に自信がない小学生時代を過ごしたため、友達といても自分の意見を言えず本当は思っていない友達の意見にのっかって、疲れてしまうことが多かったです。深掘りの中で外遊びの方が好きだったと言うことにも気づかせてもらったのですが、これも自分の意見を言う機会が少ないから楽だったんじゃないかと思うようになりました。
両親に怒られた記憶はないと思っていましたが、何をしたのかは憶えてないですがで家の外に出されて「入れて!!!」と泣きながら玄関を叩いていたことを思い出しました。パジャマで裸足のまま外に出され必死で叫んでいました。これはさらに深掘りが必要ですね。
〈中学生〉
中学時代は担任の先生と友人に恵まれ、ダメな自分を出しても受け止めてもらえる相手ができたことで自分を出すことができるように変わってきました。担任の先生が顧問の陸上部に入り今でも付き合い続けている友人にも恵まれました。1年生の時に高跳びの着地で失敗し肘を骨折しました。この時に、友人がお見舞いに来てくれたり、自分のために泣いてくれたと聞き嬉しかったです。しかし、同級生が体を触りにくることが続き、教室で泣くこともありました。その子は私のことが好きだと言いましたが、だからって許されるわけないですよね。友人も助けてくれようとしますが、力で敵わないため教室で逃げ回っていました。友人が怒ってくれたことで、すごく救われたました。自分のことで怒ってくれる人がいることがすごくありがたかったです。その頃、二重人格の人が書いた自伝を読みまくっていたので、ちょっとおかしくなりかけていたのかもしれません。
〈高校生〉
勉強の要領は良かったみたいで成績は良く、希望の高校に進学出来ました。行きたくて入った高校でしたが特にやりたこともなく、ただ進学で県外に行くための通過点のように過ごしていました。修学旅行でもクラス写真を撮るときにいないことにも気づかれないような生徒でした。旅行中に同じクラスの子に「クラス写真撮らんが?」と聞くと「撮ったで」と言われショックでしたが、結局これも誰にも言えませんでした。人に弱いところを見せることができず、内心どうしようと思っていても平気なふりをしてしまいます。受け止めることができず無かったことにしようとしているのか、それとも人にどうみられるかを考えて取り繕っているのかわからなくなってきました。ここももう一度深掘りが必要だと感じています。一人だけ友人と呼べる人がいて、その子と高二で県外に、卒業旅行でフランスに遊びに行きました。旅行に行くためにバイトを頑張っていました。
〈短大〉
県外に行きたいだけで進学した短大では、特に資格を取るわけでもなく部活とバイトに明け暮れていました。体育会系の部活で厳しく礼儀を叩き込まれました。進学説明会で「コネを使って就職しなさい」と学校から説明され、そんなことは嫌だ、手に職をつけたいと考え中学の時に骨折後お世話になった理学療法士になることを決めました。
〈社会人〉
就職して整形の病院で理学療法士として働くようになってからは自分の治療に自信が持てず、いろんな講習会に参加はしても結局自分のものにできずに患者さんに申し訳ない気持ちと自分の自信がどんどんなくなっていき、自分がどんどん小さくなっていくように感じながら仕事をしていました。同僚と自分を比較して自分のダメなところだけが大きくなっていった感じです。自分のいいところにはいっさい目が向いていませんでした。
就職して1〜2年目に同級生が事故で亡くなりました。中学の時に同級生が体を触りにきた時に怒ってくれた友人です。酔っ払い運転の車にはねられて亡くなり、お葬式でその子の親が亡くなった子を探して部屋を探してまわっている姿が今でも脳裏に焼き付いています。
〈結婚・出産〉
就職して5年ほどして20歳の頃から付き合っていた旦那と同棲するようになりました。私が子供が欲しくなったのですが、自分が人と暮らせるのか実家でもいっさい家事をしていなかったので炊事ができるのか心配だったのでまずは同棲をしてダメだったら別れよと思い同棲をスタートさせました。1年経ち一緒に暮らしていける自信ができたため、結婚。ラッキーなことにすぐに子供に恵まれ、旦那の両親に報告に行くと「万歳!!!」と喜んでくれて嬉しかったです。
出産は思った以上に大変で、廊下で弟がビデオを回してくれていたのですがその中に私が「痛い!!!」と叫んでいる声が入っているほど痛かったです。それなのに助産師さんに「安産」と言われてびっくりしました。これのどこが安産なのか?10数時間も苦しんで安産?おかしいんじゃないかと驚きました。
出産後は1年間育休を取らせてもらい、ゆっくりと時間が流れていると感じられるほど穏やかに過ごすことが出来ました。一人目あるあるで写真の枚数も恐ろしいほどたくさんありました。子供が可愛くてたまらなかったです。初孫だったため祖父母・私の兄弟にもめちゃくちゃ可愛がられていました。
仕事復帰後すぐに子供を預けていた保育園の先生に「お母さん赤ちゃんできた?」と聞かれ「できてません」と答えるも妊娠検査薬で検査するとまさかの妊娠!!どうしてわかったのか先生に聞くと「私の子どもが教えてくれたと」言うのです。子どもの能力にびっくりでした。今でもなぜわかったのか不思議でたまりません。私が気づいていないのに!!
二人目の出産は壮絶でした。陣痛きたから子供をおばあちゃんに預け、旦那に「病院に連れていって」と話すとまさかの「友達の家に行ってくるき」と言われそのまま行ってしまいました。陣痛が来ているのに旦那は帰って来ない、これは一生の恨みになりそうな出来事です。今でも鮮明に憶えていますから。何度も電話をしてやっと帰ってきた旦那に病院に連れていってもらい、一人目と同じように10時間を超える陣痛に耐えていましたが、途中で子供の心音がさがり帝王切開になるかもしれないと言われました。普通分娩で生まれたのですが生まれた時にすぐに泣かなかったみたいで、看護師さんにお尻を叩かれている子供を見て旦那は「泣け、泣け!!」と祈っていたようです。後で聞くと羊水がない状態での出産だったため、子供も命懸けで生まれてきてくれました。羊水がないことはエコー検査でわかると後で知り、もうこの病院では産まないと決めました。
二人目ができてからの生活は大変の一言です。上の子のヤキモチがひどく、母乳をあげていたら下の子の手を血が出るまで噛んでいました。母乳をあげる時に座っていた椅子は、子供の歯型だらけになっています。私がもっと上の子を見てあげれば良かったと、今では後悔しかないです。育休が明け、さらに仕事が始まると私も余裕がない、子供も構ってほしい、旦那もイライラでみんなのイライラがどんどん大きくなっていき家庭がピリピリしていきました。この頃が一番家族の危機でした。いつ離婚してもおかしくない状態で「どっちがどの子を引き取るか」と売り言葉に買い言葉で言ったこともあります。
育休明けで職場復帰してすぐに、家の近くの病院に異動になりました。環境が変わったことで小さくなっていた自分が少し大きくなることが出来ていたのですが、ここからが試練の日々でした。もともと同じ病院で働いていた同期が一旦退職していたのですが、再び同じ職場で働くようになりました。最初は良かったのですが、だんだんと自分の感情を周りに当たり散らすようになり、さらに別の人のいじめも始まり職場が最悪の空気でした。私は無視され、それでも誰にも相談できず自分一人で抱え込んでいました。そんな環境だったので、辞めたい、とりあえず辞めたいと毎日思っていました。それなのに病院ではそんな素振りはまったく見せず、平気なふりをしていました。この頃から3人目がほしいと思っていたのですがなかなか授からず、もう無理かなと思っていたところに妊娠がわかりました。
子供は欲しかったのですがそれよりも仕事から逃げたかったのかもしれないと思うほどしんどかったです。
そして妊娠5ヶ月の時に、休みなのに出血し急いで病院に行きました。そこで言われたのが「前置胎盤」という病名でした。これは赤ちゃんが産まれて来る産道を胎盤が塞いでいるため、普通分娩はできません。そして医師から「絶対安静」と言われました。「いつまでですか?」と聞くと「産まれるまで」と言われて固まりました。その時思ったことは仕事どうしようです。あんなに辞めたいと思っていたのに実際仕事を休みなさいと言われたら、職場の人に迷惑がかかる、今の人数で回るんだろうかと職場の心配をしている私がいました。あんなに辞めたいと思っていたのに。とりあえず大きな病院で診てもらうまでは休んでと言われ1週間後に検査してもらいました。お腹の張りがないこと薬を飲んでいないことで仕事は行ってもいいと言われ、ほっとしました。職場に相談し、勤務を半日に変更してもらい産前8週まで働くことが出来ました。こうやって書くと職場の雰囲気が良さそうに感じますが、特に変わってはいません。ピリピリ状態は続いています。
子供が二人いる状態で産前6週から入院となると旦那だけでは生活が回りません。全面的におばあちゃんに頼ることにしました。おばあちゃんは仕事をしていたのですが、お願いして辞めてもらい子供の面倒と炊事・洗濯、つまり家の事全てをお願いしました。しかも下の子が卒園・入学の時期に入院となり、全ての準備をして入院しました。この時に自分のことで精一杯で、子供達が寂しい思いをしているということにまで気が回りませんでした。私はガラ携だったのですが、スマホで顔を見ながら話をしてあげれば良かったと後悔しています。入院生活はベッド上で絶対安静、他の階に行くときは車椅子移動です。それほど出血のリスクがあったんですね。でも最初の10日間は入院が嫌で嫌でたまらず後何日で退院できると、指折り数えていました。実家にある今までに買った小説を順番に持ってきてもらい全て読み返して過ごしました。一日中ベットの上でいることは本当に退屈で、食事が唯一の楽しみでした。
卒園式には無理を言って外出させてもらいましたが、車の振動がしんどく病院に戻るとお腹の張りがすごくなり、入学式は無理だなぁと諦めました。でも、ランドセルで入学式に出る姿をこの目で見たかったです。
出産の日は自分で歩いて手術室に向かい予定通り子供も無事出産することが出来ました。
次に目が覚めたのは病棟で看護師さんに子どもが無事産まれたことを教えてもらい安心していると、ゴボッと出血する感覚があり看護師さんに「出血したみたいです」というと即ナースコールを押し、ベッドごと処置室まで運ばれ産科のドクター、看護師さんが全員集合して処置に当たってくれました。出血を止めるためにガーゼを詰め込んで止血。一旦止まって誰もいなくなったのですが、再び出血。看護師さんが血液を鷲掴みにして輸血してくれているのを最後に意識を失いました。次に目が覚めたらICUで口に人工呼吸器を入れられた状態でした。人工呼吸器が苦しくて早く退けてもらいたかったのに、医師が来るまではダメだと言われすごく長い時間我慢したように感じました。考えたこともなかったですが、人工呼吸器を入れていたら話せないですね。言葉が伝えられないということはすごくもどかしかったです。
1日ICUで過ごした後産科に戻ったのですが、身体がしんどく座ることもできずテレビを見ると頭が痛くなる状態でした。これは1日に2回の全身麻酔。1回目は帝王切開でお腹を20センチほど縦に切って赤ちゃんを出し、出血多量で2回目も同じ場所を開き子宮を摘出し、入院中にためていた1200m Lの血液では全然足らなかったためさらに1200mL以上輸血してもらったためです。唯一見る事が出来たのがNHKでした。画面の色味も柔らかく音もうるさすぎないので食事の時だけNHKをつけて、あとはずっと寝ていました。子どもに会えたのは3日ぐらい後だったと思います。母乳をあげることもできず、少しの時間一緒に寝るだけしかできませんでした。出産後は痛みを抑えるために背中にドレーンを入れて、痛くなったらボタンを押して痛み止めを入れていたのですが、中に入っていた痛み止めが空になるとドレーンを抜いて痛みを我慢するしかなくなります。そうなると途端に痛くて動けなくなりました。私の場合は子宮をのけていたのでそこに溜まった血液を外に出すためにお腹からドレーンも出ていました。麻酔がなくなるとお腹に入ったドレーンが痛くて起き上がることもままならない状態でした。トイレに行って帰って来ることが恐ろしく感じるほどの痛みでした。その様子を見ていた看護師さんが医師にお腹のドレーンをのけてもらえるように話をしてくれて恐ろしい痛みからは解放されました。
そこから一般病棟に移りやっと子どもにミルクをあげたりオムツを変えたりということが少しずつできるようになってきました。でも、そこからまたしても試練がありました。子供の検査の結果、先天性の異常があるかもしれないと言われたのです。最初はその言葉の意味もよくわからず、まあ大丈夫だろうと軽く考えていたのですが「風邪をひいたら死ぬかもしれない」と言われ、青ざめました。風邪なんてだれでもひくのにどうやって防げばいいのかわかりませんでした。とりあえず検査をして調べるしかないと言われ、「検診の時に検査します」と言われました。退院してからもおばあちゃんに家の一才をやってもらい、私はほぼ寝たきり状態でした。子どもにミルクをあげることも時々しかできず、二人の子供と旦那も協力して子育てしてくれました。「風邪をひいたら死ぬ」と言われていたので子供達には手洗いうがいを徹底してもらい、子供の友達が赤ちゃんを見たいと言っていたのですがそれは申し訳ないけど断っていました。
検査には2回行ったと思います。検査は子供の小さい手に針を刺し包帯でぐるぐる巻きにした状態で点滴をし、その後子供の血液をとって数値が上がるかどうかを見る検査でした。痛くてしんどいはずなのに子供は泣きもせず点滴を受けていてとても心が痛かったです。辛いはずの検査を受けている子供を褒めて褒めてその時間を過ごしました。
1回目の検査では数値が上がらず、異常がなしとはなりませんでした。次は違う点滴をして数値が上がるかを見るからと言われ次の予約をして帰りました。ところが次の予約が来る前に、子どもに熱が出ました。急いで病院に行くと「風邪でしょう」と言われ「先天性の異常があるかもしれないから検査をしているところ」だと説明すると即入院となりました。入院中もまた点滴です。またこの小さな手に針を刺し、包帯でぐるぐる巻きにした状態で過ごしました。幸い翌日には退院でき、2回目の検査の時に先生に「先天性の異常がある前提で先に治療を始めることはできないのだろうか」と相談しました。診断がついていない状態で治療をすることは難しいらしく、「病院の倫理委員会で提案してみます」と言っていただき帰ってきました。私としては何かあってからでは遅いから先に治療してもらう方がこの子の助かる確率が上がると思っていました。2〜3日後に先生から電話があり「お母さん、数値上がりました。もう治療の必要もありません」と言って頂き心からホッとしました。やっと安心して生活できるようになりました。
私の身体も赤血球を作れるようになりめまいもなくなり、座れるようになり、長く動けるようになり、2階にも上がれるほどに回復しました。
1年後職場復帰したのですが、ここで初めて時短勤務をさせてもらいました。職場で時短勤務をしている人がいたこともあり、子どもが3歳になるまで時短をお願いしました。この時の職場のトップが私を無視していた元同僚でした。迷惑かけたことは確かなので嫌々ですが挨拶に行きました。すると今まで無視していたのに手のひらを返すように愛想よく話をして、私の方がひいてしまうほど態度が変わっていました。どんなに話をしてくれるようになっても、もう2度と以前のような信頼関係を築くことはできませんでしたが。
〈不登校〉
5人の生活にも慣れてそれなりに楽しく過ごしていましたが、、またしても生活が一変します。上の子が不登校になったのです。最初は無理やり連れて行こうとして、子供は泣き私は怒るを繰り返していました。子どもに理由を聞いても話してくれません。今までの世界が一気に暗くなった感じでした。仕事をしていても「どうしよう」「どうやって学校に連れて行こう」「どうやったら学校に行くようになるのか」と学校に行かすことばかり考えて子供の気持ちを思いやることができませんでした。旦那も「引きずってでも学校に行かせろ」という考えだったため子供はしんどかったと思います。学校に行かない子どもが悪いと決めつけて、攻めるような口調で話していたと思います。
そこからはネットで不登校のことを調べて調べて寮に入れば子どもが変わると書かれていたら寮に入れたらいいのだろうかと真剣に悩んでいました。そんな時にある先生の記事を見つけてその先生のラインに登録し、先生の講座を聞いて心が変わってきました。「そのままの子供を愛しなさい」「赤ちゃんを可愛いと思うように、泣いても笑っても怒っても可愛いと思えるようになることです」と教えてもらいました。頭ではわかっていても心がついていかないこともありましたが、少しずつ心でもわかるようになってきました。
私はいわゆる優等生だったため、学校に行くのは当たり前、勉強はできた方がいい、先生の言う事は聞かなきゃいけない、新聞に書かれている事は全て正しいと思い込んでいました。私は自分が父親に言われて苦しんだ「そんなこと言うたら笑われる」と言う意味のない言葉を、自分の子供に使って子供を苦しめていたのです。「学校は行った方がいい」「どうして学校が嫌なのか」どうしてあんなにも学校に行くことだけが正解だと思い込んでいたのか不思議なぐらいですが世間の人が思っている一般常識から外れるとはダメだと本気で思っていました。
さらに母が忙しくて寂しい思いをしていたにも関わらず、同じように子供に寂しい思いをさせていたのです。お風呂に入る時には上の子に子供を拭いてもらいたくて、旦那が遅い時には上の子には一人でお風呂に入ってもらっていました。自分がされて嫌だったことを全部子供にしてしまっていました。もっと早く気づいていればと後悔しかありません。本当に子供には申し訳ないことをしました。
しかも上の子だけではなく、二人目の子供も不登校になりました。この子が不登校になった時には学校に絶対に行かないといけないとは思っていませんでした。3日に1回ぐらい学校に行っていたのですが、「命を削ってまで学校に行く事はないと思う」と三者面談で担任の先生に話してから二人目の子供もほとんど行かなくなりました。私がこの言葉を担任の先生に言った理由は、旦那の同僚の方の子どもさんが中学2年で自殺したからです。理由はわからないそうです。このことがあってから旦那も子供に「学校に行け」と言わなくなりました。健康な身体があるということはそれだけで幸せなことです。勉強ができない、学校に行かない、好き嫌いがあるなんて今の私からしたらどうでもいいことです。「生きてるだけで丸儲け」それまではこんなこと思いもしませんでしたが、今は心からそう思います。研究機関に行くように話してはいたのですが、そこにもほぼ通わず中学3年になりやっと2〜3週間に1回ほど通うようになりました。私が、朝子どもが起きてくるのか、起きてきても学校に行くのかと心の中で思っている時は子供は学校に行きませんでした。私が子供の不登校のことを忘れている時は学校に行っていました。これは本当に不思議なのですがこんなことがよくありました。子どもが不登校になり生活が暗くなった時には分かりませんでしたが、子どもがやりたいことを子供を信頼してやらせてあげることができればそれだけで子供の心は安定したと思います。子供を心から信じているかどうかそれだけだと思います。
今は子供を心から可愛いと思えるようになり、うちの子供は天才だと思うようになりました。私の気持ちが変わっただけで、自分に自信のなかった子供が自分は何でもできる、運がいいと思うように変わりました。今は二人とも自分の意思で毎日学校に通っています。決して学校が好きになったわけではないですが、自分のやりたい事のために学校が必要だと考えて通うようになりました。上の子は今でも「学校に行きたくない」と言いながら学校に通っています。
〈身体の師匠との出会い〉
ずっと自信がなくどんどん小さく小さくなりながら仕事をしていたのですが、2001年母親が持ってきた一冊の本で人生が変わりました。今まで理学療法のセミナーに参加はしていたのですが全く自分のものにできませんでした。しかし、この本を読んで試してみると身体が変わったんです!!これは学ぶしかないと、高い講習費を清水の舞台から飛び降りるつもりで払いました。自分、母親、患者さんと少しずつ痛みを楽にできたことで自分の治療に自信が持てるようになり、以前はどんどん小さくなっていた自分が少しずつ大きくなっていきました。この講習会に参加したのは、患者さんのためもありますが自分の治療技術をあげて自信をつけたかったと言うのが本音です。とにかく自分に自信がなかったんです。しかも仕事ができそうにみられてしまうため、中身がこんななのでこの負のギャップも嫌でたまりませんでした。でも身体の師匠と出会ったことで少しずつ自信を取り戻せるようになってきたのです!!この出会いには感謝してもしきれません。
長々と人生の棚卸しを書いてきました。
もし読んでくださった方がいらっしゃったら本当にお疲れ様でした。
そして、ありがとうございました。
自分の信念理念、探していきます!!