短編小説「すべての朝帰りがいつか報われますように」

「すべての朝帰りがいつか報われますように」
                             池亀三太

ゴリラが指揮者でチンパンジーがシンバルのオーケストラ。夜の下北沢は今日もそんな支離滅裂な音を奏でている。
深夜1時40分を少し回ったあたりから徐々に、店頭に出した百円の古本をゴミ同然に放り込んだワゴンを店内にしまい始め、2時きっかりになるのを待って看板の電気を消す。下北沢駅を通る小田急線も京王井の頭線もとっくに眠りについた時間だというのに駅前から続く通りにはまだ活気が残り、酔っぱらい同士の怒号の応酬、ストリートミュージシャンの絶唱、大学生たちのバカみたいな笑い声が不快に入り混じり街全体がでたらめな演奏を繰り広げていた。あちこちの路地で自暴自棄になった演奏者たちが自分こそが主役だと言わんばかりに思い思いの楽器で大きな音を鳴らしている。
 この街の夜が今日も好きになれない。

初めて東京で迎えた夏は、期待していたようなことなんて何ひとつ起こらないままゆっくりと通り過ぎようとしていた。
高校を卒業してすぐに、ぼんやりとした輪郭がはっきりしないままのやりたいことを抱えて九州の田舎から出てきてもうすぐ半年になろうとしている。
東京には地元にないものすべてがあると思っていた。すべてって何かと問われても返答に困るけれど、高校生活の3年間、常に心の真ん中に鎮座していた『退屈』という巨大な岩をぶち壊してくれるものが東京にはあると信じていた。
何者かになるためにと漠然とした思いのままに下北沢の風呂なしトイレ共同3万5千円のボロアパートを借りてこの街で潜伏するかのように生活を始めた。アパートの初期費用と引っ越しのお金は母親が貯めてくれていた自動車学校に通うためのお金をあてた。理由がはっきりとしない息子の上京に母親は最後まで納得しなかったけれど、強烈な反抗期丸出しの態度でもって押し切り説明責任を放棄したまま新幹線に乗った。
北口の一番街という商店街を奥へと進み1本住宅街に入った場所にひっそりと佇むボロアパートは日中も陽が当たらず、今の堕落しきった昼夜逆転の生活には収まりが良すぎる。あまりのフィット感にもう一生ここから抜け出せないような気さえする。隣人に得体の知れない毛むくじゃらのオジさんがいるが、何日かに一度の頻度で作業着姿で出掛ける以外は家にいる。あのオジさんは未来の僕かもしれない。
明け方に寝て、昼をとっくに過ぎた頃に起きる生活はメリハリもなければ日々を潤すようなイベントもない。なんてったて僕にはバイト以外に約束というものがないのだ。いついつどこどこでだれだれと会う。そんな約束事は上京してから一度もない。
それでも何かをしなければいけないと思い毎日街へと繰り出してみている。ヴィレッジヴァンガードに通って店内をぐるぐる彷徨い、難しそうな本を手にとっては立ち読みを繰り返しているだけでちょっとずつ『何者か』になるための道を歩んでいるような気がした。ただそれだけの毎日。この街に馴染みながらいつかは自然な形で何者かになっているだろうと想像を膨らませながら過ごしている。例えばリリー・フランキーみたいな、例えば糸井重里みたいな、例えば松尾スズキみたいな、例えばいとうせいこうみたいな、例えば高田純次みたいな。いつしかそういう特別な存在になっている自分の姿を夢想する。それも若くして。

実際は来る日も来る日も時間が過ぎ去るのを待つだけだ。
夕方から始まるバイトの時間まで何度も時計を確認して時間が過ぎるのを待った。バイトが始まってからも何度も時計を確認して閉店時間を待った。ただじっと目の前の時間が過ぎてくれるのを願うだけの虚無の日々。
上京してすぐに始めた古本屋のバイトは、家が近くて終電を気にしなくていいという理由から夕方から深夜2時の閉店までのシフトを店長に頼まれるがまま引き受け、22時以降は一人で店番をすることが多かった。
今日も店のレジカウンターで買い取ったばかりの本の山から、なんだかサブカル臭がするというだけの理由で選んだ、一体何が書いてあるのかちっとも分からない文庫本を読むでもなく眺めながら閉店時間までやり過ごした。
店の前を行き交う人達は誰もが楽しそうで、僕のように1人でもなければ、退屈そうでもない。まるで店の外は別の世界だ。別の世界からふいにこっちの世界である店内に侵入してきては、あっちの世界の住人たちがいかにも好みそうな本を買っていく。その本の面白さが僕には理解も出来ないから、あっちの世界に参加できる権利をいつまでたっても得られない。僕だけがこの狭い古本屋の世界に閉じ込められている。退屈だ。退屈から逃れるためにわざわざ東京へやってきたのに、その東京でより大きな退屈と対峙している。

レジのお金をチェックし終えると、店の外に出て力いっぱいシャッターを引き降ろした。夜の街にけたたましいシャッターの音が鳴るが誰も見向きもしない。奴らは自分が鳴らす音にしか興味がないのだ。
終電なんかない種類の人達はこの街に居座ってお酒の力を借りながら騒がしさを増していた。同じ街の住人のはずの僕はひとり、誰に視線を向けられることもなくシャッターと向き合っている。下に引く勢いが足りず途中で止まってしまったシャッターの隙間から防犯用に付けたままにしている蛍光灯の明かりが漏れている。沼の底から汲み上げたどす黒いヘドロのようなため息が漏れる。下がりきらなかったシャッターの下のでっぱり部分を怒りに任せておもいっきり足で踏み降ろす。
この数ヶ月、自分が一体何に苛立っているのかさえ分からない。
漠然とした目的は徐々に漠然とした焦りに変わり、それはやがて対象のない漠然とした苛立ちになっていた。
少しでも油断すると涙が込み上げてくる。喧騒の響く街に背を向けて、しばらくシャッターにおでこを擦りつけたまま動けなくなった。
「お疲れ様。今日も何者にもなれなかったね」
シャッターに小さく反響させて自分自身に語りかける。
ぼやいても、一人。ぼやかなくても、一人。
憧れから大嫌いになろうとしているこの街を今夜も誰にも気づかれないまま離脱する。
ふいに、店の脇にある自動販売機の横で地べたにしゃがみ込んでいる女の子が目に入った。独り言を聞かれたかもと思ったけれど、視線は僕には向けられていない。体育座りの体勢で膝と膝の間に顔はすっぽり埋まっていて見えない。まるで備え付けであるかのように店の壁と自動販売機の間に綺麗に収まっている。
この街のいたるところに酔って道に座り込んでいたり、寝転がっている人を見かけるし、珍しくもなんともない光景だから普段なら気にも止めないけど、どうしてもほっといてはいけないような気がした。僕と同い年くらいだろうか。ここは百鬼夜行のごとく酔って自分を見失ったものたちが行き交うデスロード、さすがに声をかけてあげるべきだろうか。それにさっきからぴくりともしないし、限りなく低い確率ではあるけど意識不明、もしくは既に死んでいるという可能性も否定できない。人として安否確認をすべきだし、万が一、最悪のパターンであった場合は然るべき機関に電話連絡をしなければいけない。そしたら翌朝のニュース番組に第一発見者としてインタビューを受けて、明快な状況説明と独自の視点からの推理、更にはこの街の抱えている問題点から現代の若者の闇をあぶり出すその理路整然としたコメントが評価され、翌週からコメンテーターとしてレギュラーに抜擢され・・・そこまで妄想して完全に不謹慎であることに気付いた。
とにかく声を掛けなくては。けれど、いざ安否確認しようにもどう声を掛けたらいいのか分からない。上京してからお客さん以外の女の人とほとんど会話をしていないし、そもそも地元にいたときも母親以外の女の人とはほとんど話したことはなかったし、まあ、高校生くらいからその母親とも会話はほとんどなかったけど、それはまた別の理由だから今はどうでもいい。とにかく、致命的なほど『おんな』という生き物に免疫がない。未知なる生き物。チュパカブラやビッグフットとまでは言わないまでも、河童よりは未知。河童はきゅうりが好きとか、頭のお皿が乾いたら弱るとかは知っているけど、『おんな』が何を好きで、何に弱いのかは知らない。
女の人に話しかける言葉のレパートリーが今は「いらっしゃいませ」しか持ってないけど、絶対に「いらっしゃいませ」ではないことだけは分かる。
頭の中でありとあらゆる言葉を浮かべながら、山本太郎が国会でみせた牛歩戦術ほどの歩幅で歩み寄っていく。頭の中に浮かぶ言葉はどれも正解には程遠いものばかりで、テンパったときのドラえもんの四次元ポケットなみにガラクタしか出てこない。とうとう答えは出ないまま女の子の前を通り過ぎ自動販売機の前まで来てしまった。
はじめから喉が乾いて飲み物を買おうとしたんです、みたいな態度でお尻のポケットから財布を取り出すと、バイト先の先輩連中からバカにされまくるマジックテープをビリビリと剥がして中から小銭を取り出す。僕はただ喉が乾いた人だ。喉が乾いて自動販売機に吸い寄せられた人だ。女の子が自動販売機の横でぐったりしてるけどそんなことよりも喉が乾いて仕方がない人だ。そうやって、誰に聞かれてもいないくせに頭の中で説明を繰り返す。
今の気分は断然炭酸だ。それも強烈に喉がキューってなるやつ。どの炭酸飲料で喉を痛めつけてやろうかとボタンの上で指がいったりきたりさせる。指が左右に動く流れに合わせてチラリと横目で女の子を見る。何度見ても女の子はピクリとも動かない。指を何往復もさせたあげく、念のためにという保険をかけて炭酸ではなく水のボタンを押した。
僕は喉が乾いたときは水を飲む人間だ。またそうやって自分自身に説明をする。
乱暴な音を立てて水のペットボトルが吐き出される。この街では自動販売機さえも不快な音を奏でるお猿のオーケストラの一員だったのを忘れていた。その乱暴さに彼女がびっくりして起きないように慌ててペットボトルを掴み上げ、まるで2本目の飲み物を選んでいる風を装いながら横目でしゃがみこんだ女の子を盗み見る。直感的に同い年くらいって思ったけど実際の年齢は分からない。顔を上げてめちゃめちゃおばさんだったらどうしよう。そんなことを思うってことは深層心理で下心よなものがあるのかもしれない。たとえ顔を上げたらおばさんだったとしても、おばさんみたいなおじさんだったとしても、もろにおじさんだったとしても、このまま放置するのはよくないはずだ。誰にも聞かれてない自分の頭の中でさえも言い訳しようとしてしまう癖はなんなんだろか。このやっかいな自意識のせいでいっつも身動きできなくなる。けれど今は重大な任務『安否確認』がある。自意識がどうとか言ってる場合ではない。
僕は人生最大の勇気を振り絞り、頭の中に浮かんだ言葉すべての選択肢を捨て、というか口に出せず、無言のままペットボトルを差し出した。
ついにやってやった。これは人類にとっては小さな一歩かもしれないが、僕にとっては大いなる一歩だ。心臓の鼓動が体内で反響して耳まで届く。さっきまで騒がしかったはずの街の喧騒は一切聞こえなくなって、ドクンドクンと脈を打つ音だけが聞こえる。ゴクリと喉が鳴る音が重なる。ペットボトルの表面についた水滴がスローモーションで地面に落ちる。
どれくらいの時間が経っただろうか。体感にして15分、実測にして恐らく3秒。女の子の顔は膝の間に埋まったままで、差し出したペットボトルに気づいていない。試しに口を閉じたまま「ん」と言ってみる。「ん」は口を閉じたままだから頭の中で反響して、実際にどれくらいの音量の「ん」が出ているのか分からない。
「ん・・・ん・・・ん・・・」
何度か「ん」を繰り返しながらペットボトルを女の子のTシャツの袖に触れさせてみる。
『となりのトトロ』のカンタ、もしくは『千と千尋の神隠し』のカオナシみたいに静かな圧でペットボトルを突き出す。カオナシは「ん」じゃなくて「あ」だけど。あのけなげに金を受け取ってもらおうとするカオナシと拒絶する千尋のシーンが僕的には一番泣ける。そして僕は今まさにカオナシ状態。千尋役のこの女の子は黙ったまま動かない。僕なりにカオナシ役を粘り強く演じてみるけど、反応はない。もしかしたらカオナシよりも悲しい状態になっているかもしれない。そしてカオナシ役をまっとうするなら僕はこのあと取り乱して下北沢中の人や物を飲み込みながら大暴れをしなければいけないことになる。
あまりの気付く気配のなさに不安になって、これはいよいよ死んでる可能性も本格的に否定できないと思い、人生最大の勇気を更新してペットボトルを二の腕の地肌部分に押し当ててみた。
すると突然、ものすごい勢いで女の子の頭が両膝の間から飛び出てきた。
びっくりしておもわず半歩後ろにのけぞってしまった。女の子はこちらに驚いた顔を向けている。僕の身体は重心が後ろに傾いたまま完全に固まってしまった。それなのに脳内ではふんどし一丁の男たちがわいわいと大勢集まってきて祭りの準備を始め出す。飛び出してきた顔があまりにも可愛かったからだ。いや、可愛いからなんだってんだ、僕はただの安否確認をしたかっただけなんだからと、慌てて神輿を担ぎ始めていたふんどし姿の男たちを追い払う。
脳内は一瞬の祭りのあとの余韻で逆に閑散としてしまい、からっぽ。どう声をかけたらいいのか分からない。かろうじてまた「ん」と声を出してペットボトルを差し出してみる。
女の子は僕の顔と差し出されたペットボトルを交互に見る。
「あ、い、い、今買った・・・あの、新品・・・です」
と、ようやく言葉らしい言葉が出た。
それからまた女の子は三度ずつ、僕、水、僕、水、僕、水の順番で交互に見たあと、くしゃっとした笑顔を見せるとペットボトルを受け取ってくれた。
緊張でガチガチに硬直していた全身の力が抜けていく。今の僕の身体のお肉をグルメレポーターが食したら「口の中でとろけちゃう!」と絶賛してくれるだろう。
水のペットボトルを受け取ってもらっただけなのに初めてこの街の住人に存在を認識されて受け入れてもらったような安堵感で満たされた。
彼女はごくごくと勢いよく水を飲んでいる。自分が差し出した水を躊躇なく飲む彼女の姿に僕という存在を『異物ではない』と認めてもらえたような気がした。
500mlの水がみるみるとなくなっていく。
僕は水を飲み続ける彼女から目が離せなくなっていた。幼さの残る輪郭に少し垂れてる瞳。さっきくしゃっと笑ったときに一瞬できれいな弧を描く線になったその瞳は、今は大きな粒がクリクリとして南国の昆虫みたいに光っている。
夏が通り過ぎたばかりには相応しくないくらいに白すぎる肌は自動販売機の光を反射して眩しかった。

彼女が急にむせ出した。
むせた衝撃で口から水が飛び出してアスファルトにシミを作る。
「大丈夫ですか?」
「だって、すごいジロジロ見てるから」
「え?」
ガン見していたことが完全にバレている。
「私、珍獣扱いされてる?」
慌てて否定するが、どう取り繕ったらいいのか分からない。やばい、さっき存在を認めてもらったような気がしたばかりなのにこの街の住人になりきれていないことが早速バレてしまう。
「あ、なんかどこかで見たことあるような気がして」
思わずバレバレの嘘をついてしまう。もうこれは完全にバレた。全部を見透かした目でこっちを見ている。
「もしかして、私の出てた舞台観てくれたことあるんですか?」
何のことを言われているのか全く分からず、キョトンとしてしまった。彼女はキョトン顔に気付いてないのかまた分からない言葉を続ける。
「『マチルダアパルトマン』とかかな?」
「え?」
「私、演劇やってるの。これでも一応女優なんだよ」
「あ、そうなんですね」
ようやく、舞台という言葉の意味が追いついた。
「マチルダ・・・なんとかってなんですか?」
「あ、劇団。そういう名前の劇団があるの」
そういう名前の劇団か。初めて聞いた人が一発で聞き取れない、または聞いても一発で覚えられない言葉の羅列を恐らく大事であろう劇団名にすることがいいことなのか、それが劇団をやる人たち特有のこだわりというものなのか僕には分からない。
正直、演劇にいいイメージはなかった。
上京したての頃、せっかく下北沢に住んでいるんだからと、何度か駅前にある小さな劇場に足を運んでいたけれど正直なところ「なんだかよく分からない」という感想しか抱けず、これは僕が東京に求めているものじゃないと早々に見切りをつけていた。だけどそれも本当は自己防衛だということも気づいている。なんだかよく分からなかった劇が終わってカーテンコールになると、周りの観客は出演者に力強い拍手を送ってすべてを理解したようなすっきりとした表情で客席を立つので、僕だけがこの面白さや芸術性に気付けない田舎者のような気がしてしまった。それ以来、演劇そのものと、演劇を観ちゃうような人たち、そして演劇をやっちゃうような人たちのことを軽蔑することによって自分のプライドを守ってきた。でも目の前の彼女は正真正銘の演劇をやっちゃうような人たちの中の実際に演劇をやっちゃっている人だ。
「わたし、あずき。本名は違うけど、『あずき』って芸名で女優やってる」
そんなあんこにされてお餅で包まれる手前みたいな芸名を聞かされてもピンとはこない。
女優といっても誰もが知るような有名な人ではないんだろう。以前観た演劇に『踊る!さんま御殿』の再現ドラマで何度か見たことがあるおじさんが出ていてその時だけはテンションが上がった。
彼女の名前も顔も見覚えはない。下北沢で演劇をやっちゃっている人たちの多くがそうなように、彼女もきっとこれからの人なんだろう。夢を追いかけている人。上京のときに僕が意地でも母親に言いたくなかった表現。夢を追いかける。自意識が邪魔をして僕はその追いかけっこに正々堂と参加することが出来ない。その結果がこの鬱屈した日々だってのも本当は気付いている。それでも「夢」というその言葉はあまりにも光り輝いて、その恥ずかしげもない青春ど真ん中すぎる言葉の眩しさに僕の自意識は到底耐えられない。だから、演劇をやっちゃうような人たちのことを軽蔑しているのもどこか羨ましいっていう嫉妬からくる気持ちがあるからなんだっていうのももうなんか本当は全部気付いている。

「女優やってるっていうか、やってた。今日で最後だったから」
「え?」
「今日で全部おしまい」
彼女はそう言い終えると、ほんの少しだけ残ったペットボトルの水を飲み干した。
自己紹介からの唐突な報告になんて返せばいいのかまた言葉を見失ってしまった。あまりにカジュアルな言い方をしたけれど、その言葉は彼女にとって夢の終わりを意味するものじゃないんだろうか。

彼女は、3年前に岡山から上京してきたこと、劇団のオーディションに受かって舞台女優をやっていること、今日まで下北沢の劇場で公演をやっていたこと(最終日のことを千秋楽というらしい)、その公演の打ち上げを1人で抜け出して今ここにいることを教えてくれた。
確かに、彼女の足元は居酒屋の店名がマジックで書かれた便所サンダルだった。

自動販売機で2本目の水を買って、今度はスムーズに差し出した。
「ありがとう、あ、ごめんなさい。お財布居酒屋に置いて来ちゃった」
と、申し訳なさそうな顔をしたので「大丈夫」と精一杯の強がりをして、実際に大丈夫であることを示そうと財布の中の残り少ない小銭を自動販売機に投入して缶コーヒーを買った。缶コーヒーなんて買ったのは人生で初めてだったけれどいつもこの銘柄のコーヒーを飲んでますみたいな顔をして躊躇なく青い缶のボタンを押してみせた。
本当は彼女がただ寝ているだけで介抱が必要な人じゃないことが確認できたならこの場を立ち去って良かったんだろう。けれど、なんだかこの場に残って話を聞いてあげたほうがいいような気がして、というか僕がそうしたくて、思い切って彼女の隣にしゃがんでみた。彼女に僕の汗のニオイがバレないように近づき過ぎない距離に注意しつつ地べたにお尻をつける。
同じ目線になると、彼女から地元では嗅いだことのない甘い香りがした。その香りが香水によるものなのか、シャンプーによるものなのか、柔軟剤的なものによるものなのか、それとも彼女自身から香っているものなのか僕には分からない。

「なんで女優辞めるの?」
振り返った彼女の寂しそうな表情を見て、この質問はすべきではなかったと即座に後悔した。ちょっと考えれば分かるはずなのに。初対面の人間が夢を諦めようとしている瞬間のことをズケズケと聞くなんて無神経過ぎる。沈黙が怖すぎてそんな判断もつかずに迂闊な質問を投げてしまった。できることなら今すぐに喉を掻き切って死んでしまいたい。うまいこと彼女だけを避けて僕のところに大型ダンプが突っ込んできてくれないだろうか。
「あ、答えづらかったら別に言わなくてもいいんだけど・・・」
一応、取り繕おうと付け足してみたものの、彼女は困ったような悲しむような、憂いのある表情のままじっとこっちを見つめたままだ。
慌てて缶コーヒーを開けて飲む。なんか変な味がする。この変な味っていうのがきっとコーヒーの味なんだろう。僕の中でコーヒーも『なんだかよく分からないもの』の一つに加わった。
「女優なんて向いてなかったんだろうね・・・ただそれだけ」
彼女から出てきた言葉はあまりに哀愁をはらんでいてどうしたらいいのかまた分からなくなった。僕にはこの短時間で分からないことだらけだ。本当は「そんなことないよ」って言いたかったけど、実際に彼女が舞台に立っている姿を観ていない、もしかしたら観ているかもしれないけど覚えていない僕にはそんなことを言える資格があるはずもなくて黙ってしまった。沈黙が二人を襲う。いや、襲われていると感じているのは僕だけだろう。こっちから質問したのに何も返さないとか最悪のパターンだ。
前を見据えたままの彼女の横顔をバレないようにそっと盗み見る。憂いを帯びた彼女の表情からは何を考えているのかまでは読み取れない。
その横顔をただずっと眺めていたいって思った。
すぐにでもこの沈黙を破りたいけど、もう失敗は許されない。慎重に下北沢中の人々の命を託された爆弾処理班のように質問を試みる。
「じゃあ、地元に帰るの?」
「まだ決めてない。女優辞めるってことを決めたばかりだから。そんな全部いっぺんに決められないよ」
小さく微笑んだ顔が余計に寂しく映る。
「でも、女優辞めるってことは東京にいる理由がなくなるってことだもんな・・・ああ、でも彼氏がいるか・・・まあそれももうどうでもいいけど」
そうつぶやいたあと大きなため息とともに彼女の頭はまた膝と膝の間に埋まっていった。
『彼氏』という単語に激しく動揺した。もちろん悟られないように表情には出さない。出さないけど奥歯をぐっと噛んだ瞬間を見られてしまったような気がする。ノーガードだったとはいえ心になかなかの深い傷を負ってしまった。完全にグサリと刺さった音がした。いや、傷付いてどうすんだよ。僕みたいな奴が少しでもこの時間に何かを期待してしまっていたことを自覚してまた自己嫌悪になる。
そしてまた恐れていた沈黙がやってくる。
なにか喋んなきゃ、なにか喋んなきゃ、という自分の心の声だけが頭の中に響いてうるさい。
「今度、あずきさんの舞台観に行きます」
「だからもう辞めるんだって」
「僕があずきさんが東京に残る理由になれませんか?」
「は?」
再び、彼女の頭が膝と膝の間から浮上した。くりくりの目が『なんで?』という表情のまま僕にまっすぐ向けられている。
どうしてそんな発言をしてしまったのか分からくてまた脳内でパニックになった。だって今の発言は明らかに気持ち悪い。キモいとかそういうさらっとした言い回しじゃ足りないほどに、気持ちが、いや、気色が悪すぎる。取り繕おうにも次の言葉が出てこなくて口をパクパクさせたまままた固まってしまった。何度目のフリーズか。街中で意図せず弱々なWi-Fiに接続してしまったときのような速度感だ。
すると彼女はクシャッと笑い、また目のところが綺麗な線になった。
「君は優しいね」
その言葉に全力で首を横に振って否定する。
「だって、水も買ってくれたじゃん」
「え、」
「しかも2本」
「いえ、おそまつさまです」
おそまつさまってなんだよ。

彼女の笑うと線になる瞳、自動販売機の光を反射する白い肌、憂いを帯びた表情、僕はすでにその全部の虜になっていた。
彼女に聞かれて僕はようやく出遅れた自己紹介をした。といっても紹介できるようなことなんて僕には何もなかったけど。そして、お互いのことを語り合った。僕が「演劇はあまり観ない」と言うと、彼女はオススメの劇団をいつくか教えてくれた。そのどれもを僕は聞いたことさえなかった。だけど彼女が話すととても面白い世界のように聞こえる。毛嫌いしていた演劇が彼女一人の存在で好きなものとして上書きされていく。だって、彼女が夢を追いかけて飛び込んだ世界が「なんだかよく分からない」だけで終わるような世界なわけがない。
あんなに騒がしかった街はいつの間にか僕と彼女の声以外は聞こえなくなっていた。実際に街が静かになったのか、彼女との会話に夢中になって周りのノイズが耳に入らなくなったのかは分からない。まるで僕たちのいる空間だけ半透明の薄い膜で覆われているようだった。
僕は上京してから孤独だった半年の時間を取り戻すかのように必死になって喋った。鬱屈した毎日、鼻につくこの街の人達への愚痴、蛇行しまくる僕の下手くそなお喋りに彼女はそのときどきで目を線にして僕にはもったいないくらいに笑ってくれた。

空が白んできて、短い静寂に包まれていた街に始発を目指して駅に向かう人達がちらほらと増えはじめた。
「やば、サンダル返しに戻んなきゃ」
それが幸せすぎる時間のおしまいの合図だった。
彼女は立ち上がると大きなアクビをして、「おしっこしたい」と空に向けて呟いた。一瞬の間のあとに二人で同時に笑う。
「じゃあ、またね」
彼女は最後にまたクシャッと笑ってくれた。

彼女は朝焼けの雑踏へ居酒屋の便所サンダルで軽やかに踏み出していく。
次に会う約束もしてなければ連絡先も交換していない。だけど、呼び止めてそれを指摘する勇気が出なかった。
便所サンダルを踏み鳴らして、駅に向かう人々とは反対方向に軽快に進んでいく。今、その背中に声を掛ければまだ間に合うかもしれない。まだ大きめの声を出せば、走って追いかければ。それなのに、僕の足は動かない、声も出ない。
街には次々と朝まで飲み明かしたこの街の住人たちが吐き出され、街の喧騒を奏でるオーケストラに加わっていく。また街が騒がしさを取り戻していく。
不快でしかないこの街の耳障りな喧騒の中をかい潜るようにじっと意識を集中させて、彼女の後ろ姿にだけフォーカスを合わせる。次第に支離滅裂に鳴り響いていた街の不協和音は一切聞こえなくなって、便所サンダルの足音だけが僕の耳に届いてきた。見たいものが、聞きたい音が、はっきりすると周りのノイズはなくなっていく。そこだけ鮮明になっていく。
嫌いになりかけていたこの街を好きになれるように気がした。彼女のおかげでこの街も演劇も便所サンダルも好きになれる。

いつかは僕もこの街の喧騒を奏でるオーケストラの一員になれるだろうか。
なりたいような、なりたくないような、そんなどっちつかずの感情が渦巻いている。
彼女とはなんとなくまた会えるような気がした。僕も彼女もこの街の住人で居続ければ。
いつか僕は彼女の『理由』になれるだろうか。
僕はいつものようにボロアパートに帰って寝て起きたらまたいつものようにバイトまでの時間をこの街で潰すんだろう。退屈と一緒に。
彼女は今日をどう過ごすんだろうか。
明日、明日というか今日か、今日少し早めに起きて当日券で演劇でも観てみようかな。千秋楽を終えたばかりの彼女は出ていないだろうけど。

すべての朝は自動販売機の光よりずっとずっとまぶしい。

                                了

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