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『問い続ける教師』余話


『問い続ける教師』(多賀 一郎, 苫野 一徳)の中に、カントとヘーゲルの話が出てくる。カントとヘーゲルは高校の時に少し勉強したぐらいで、特に深く勉強したことはない。だから、素人である。素人であるが、苫野さんの文章を読んでいると、思い当たることがあります。

苫野さんによると、カントは、定言命法という、この世には絶対に従わなければならない道徳法則があると解きます。

これは、私の考えでは「この料理は絶対に、誰にとっても美味しい料理だから食べろ」「この日本酒は今年度一番美味しいから飲め」というようなものだと思います。

確かに、(そこまで言われれば美味しいのだろうから、食べて飲んでみようかなあ)とも追いますが、酒を飲めない人もいるよなあとか思うのです。で、果たしてそれは本当に、絶対になのだろうかという疑問が生まれつつ、そうだとしても従うべきなのかなあという思いがするのです。

一方、ヘーゲルは相互承認がキーワードです。これも苫野さんによると、定言命法なんてものはなく、他者との相互承認を絶えずめがけているかどうかが大事で、それで道徳は決まるということなのだそうです。

これは私の考え方では、「この料理は、私にとっては一番美味しい。だから食べてみて欲しいが、かと言って君が美味しいと判断するかどうかは自由で、まずいと思ったら食べなくてもいい。ただ、君が美味しいというものも教えてくれ」というようなものだと思うのです。

「自分が嫌がることをた他人にやってはいけません」


これは子供の頃から親や大人に叩き込まれる道徳律です。
これに従うと、自分がカレーライスが嫌いな場合、周りにもカレーライスを食べさせないことが善になるはずです。

しかし、それはおかしいわけです。自分がカレーが苦手でもカレーが好きな人はいるわけで、それをダメだと押し付けることはできない。

では、どうこの問題を解決するか。
それは、「僕はカレーは嫌いだけど、君はどう? 好き?」
と確認していくしかないと思うのです。

一つのメニューの食事であれば、お互いが食べられてできれば好きなものを選択する。それぞれが選べるのであれば、それぞれが好みのものを選び、相手が選んだものについてマイナスの評価はしない。それが美味しく食事をとるときのマナーだと思うのです。

もちろん、
「これがうまい。いいから喰え」
という押し付けも、教育においては大事なこともあります。野口芳宏先生が言うように、教育は良い押し付けの部分があるからです。また、教えられている方は、その時点では、何が良くて何が悪いか判断できないこともあります。後からわかることはいくらでもありますから。

そして、その一方で「何が美味しい? 何が好き? 何が嫌い?」としながらやることも大事だと思っています。

特に意識してきたわけではないのですが、私の中にはカントとヘーゲルがいるんだなあと思って読み終えたのでした。

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