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ライターとしての目標はなんですか?

#ドーナツトーク は、誰かが出したお題についてのバトンリレー式の連載。書き終えたら次の人を指名し、最後はお題発案者が〆めます。

「ライターとしての目標」というお題に、戸惑う私がいる。引っかかったのは、「目標」という言葉。私はいつからか、目標を定めなくなった。

かつては、「30歳までに○○したい」みたいなことを考えるのが好きだったし、それに向かって努力する自分が愛おしくも思えた。

でも今は、先を見据えてゴールに向かって走るよりも、今この瞬間に心惹かれることや、感覚的に「いいな」と感じたことを大事に、あらゆる選択肢を良しとできる自分でありたいと、考えるようになった。

行き当たりばったりだけど。そんな生き方が、今は心地よい。

だから「目標かぁ…」と立ち止まってしまったけれど。これまでのエントリーを読むと、杉本恭子さんも増村江利子さんも平川有紀さんも、「目標」というよりは、なぜ書いているのか、という本質的な問いを自分に向けているように感じた。

それならば。私も、少し思考を巡らせてみようと思う。

「書く」の始まり

そもそも、私の「書く」の始まりは、あるメディアが体現しようとしている世界に近づいてみたい、という思いだった。そのメディアとは、今もお世話になっているgreenz.jp。前職で情報収集していたときに、たまたま目にしたウェブマガジンに、私は釘付けになった。

環境問題をクリエイティブに解決していくというコンセプトに、今までの概念が覆されるような、世界が開かれていくような感覚を覚えて心躍り、近づきたい一心で、ライターにエントリー。当時は全くスキルも伴わなかったけれど、greenz.jpも立ち上げ期。すぐに私を受け入れてくれて、いつしかgreenz.jpの取材を通して出会った人の話を「聞く」こと、そしてその人の言葉を「書く」こと、読者に届けることに夢中になっている自分がいた。

ただひたすらに、自分の心惹かれる世界を「聞く」ことを通して垣間見て、「書く」ことで広く伝えていく、そして反響が届く、その喜びに浸っていた。ただただ、がむしゃらに。

その頃感じていたのは、どんな人の言葉も想いも素晴らしく、それぞれに魂から輝いているということ。

人ってすごい。人の中にこそ、希望がある。

私にそんな希望を感じさせてくれた取材先の方に、まずは「あなたはすごいよ、ホントすごい!」と伝えたかったし、失敗談も人としての弱さも含めた等身大の言葉をありのままに届けることによって、それを読んだ人が、「私も行動しよう。できるかも!」と思ってほしかった。

さらにはそう伝えることで、みんなに、自分自身のことを、自分の人生を、肯定してほしい。そんなことを思って「自分自身を肯定できる人を増やす」という私の書くことの目標、というか、書くことによって実現したい世界が、透けて見えてくるようになっていた。

つまりは自分のエゴだった

でもなぜこんな風に感じていたのか。

周りに自分自身を肯定できずに苦しんでいた人がたくさんいたということもあったのかな。でも一番の理由は、きっと私自身のあり方。小さい頃から、いつも居場所を感じられず、自分を好きになれなかったという事実だと思う。「自分自身を肯定したい」という気持ちが、「肯定できる人を増やす」という美しげな目標として表れたのだろう。そうやって私は、自分の中の醜いものやエゴを美しく変換して表現することで、生きてこられたのかな、と思うこともある。(だからこうやって心の内をさらすのは、今もドキドキするのです)

今も基本的にそれは変わっていなくて。でもなんだろ、もっと根本的なものへ移行し、思いを馳せるようになった。

最近知り合ったヴォイストレーニングをしている方から、発声について、こんな言葉を受け取った。

声のエネルギーは、誰かに届けようと前に出すよりも、自分の中で共鳴しているときの方が響き、結局相手に届く。自分が前に出ようとするのではなく、自分の持ち場にいることで、誰かが受け取りに来てくれるようになる。

うんうん、まさにそんな感じで。

前のめりに何者かになろうとするのではなく、自分自身の中で共鳴していられるような人が増えたなら。きっと世の中は、まあるくなるんじゃないかな、と思う。

自分の中で「共鳴」するということ

「共鳴」について少し補足すると。

最近になって改めて感じているのは、私が夢中になっていたのは、グリーンズの世界観そのものではなく、グリーンズをともにつくる「人」であり「仲間」だったんだな、ということ。当時の編集長・兼松佳宏さんは、いつも私のライティングを心から称賛してくれて、さらには、私自身の存在をも、肯定し続けてくれていた。「水澄む草青む」をともにつくる4人をはじめとするライター仲間とは、真剣に本音で議論を交わせたし、表面的ではなく魂の部分で通じ合えている感覚があった。存在を肯定されたこと、仲間ができたことで、私は自分の居場所を確保し、その場で自己表現ができるようになった。

それは、期待されて期待に応える、という仕事の関係性を越えた、もっと根本のところのお話で、そこが満たされていると、人は自分の中で共鳴できるんだと思う。「期待されて応える」という段階では、「期待」の強度にずれが生じたときに、関係性がぎくしゃくして健全じゃなくなってしまうこともある。自分の居場所を離れてしまうこともある。

「相手に求める」のではなく、お互いに自分の表現を高めることで刺激しあい、成長をともに喜べるような。私は幸運なことに、そんな環境でライター活動をすることができ、おかげさまで成長できたと感じている。ほんとうに、おかげさまで。

そして最近の私は、メディアにとらわれず、私が成長することができたような環境でのびのびと自分の「書く」を確立していけるような幸せを、みんなと共有してみたいな、と思っていて。自分が受け取った価値を、自分のスキルと掛け合わせて、新しい価値として必要としてくれる誰かに届けるようなことをやってみようと、構想を巡らせている。まだまだ本当に構想だけど、興味を持ってくれる方、ご一緒しませんか?(ドキドキ)

でもまたそこにもエゴがあって、そうやって自分で仕事をつくることで、「期待されて応える(メディアに依頼されて書く)」だけじゃない、自分の中でさらに深い共鳴を感じられる自分になれるかな、と思っているのですよね。やっぱり、私の行動はエゴから始まっているけれど。でも、エゴでいいじゃない。みんなのエゴがみんなをいかしていくような、エゴが循環し続ける世界って、きっと最強だし持続可能だよ。

「書く」は手段

さて、だいぶ本題から離れてしまいましたが。

最初はメディアに近づくための手段としての「書く」だったのですが、それを追求していくプロセスは、誰かを肯定し、自分自身を肯定し、さらには自分自身の中で共鳴を起こすというところまで、私を育ててくれた。「書く」とともにあることで、自分を否定していた頃よりもはるかに生きやすい自分がいる。書くことの目標って、つまりは人生の目標というか、自分のあり方を問い、生きやすくしていく、「自分育て」のようなものだったのかも、と思う。もちろんまだまだ未熟すぎて、これからぐんぐん育っていかねば、なのだけど。

だから「書く」は、あくまでひとつの手段。自分の人生を心地よく生きていく、それをみんなと共有していく、という目的を達成するためには、究極を言うと、「書く」じゃなくてもいい。実は、そんなに執着もなくなっていて。これから先、何か新たな手段に出会ったら、それは自分の仕事、自分をいかす営みだと捉えて、「書く」ではない仕事もやっていくのかもしれない。

本当に、人生は出逢いだ。「書く」ことに出逢い、greenz.jpと出逢い、「水澄む草青む」の仲間と出逢った私は、幸運でした。ただただ、感謝でしかない。

最後は飛田恵美子さんに、バトンを渡したいと思います。

飛田さん、書くことの目標は、なんですか?


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池田美砂子/株式会社be・Cの辺り
貴重な時間を割いて読んでくださったこと、感謝申し上げます。みなさんの「スキ」や「サポート」、心からうれしく受け取っています。