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堕胎の問題を「倫理様式」モデルで考える
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堕胎の問題を「倫理様式」モデルで考える

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■堕胎と「いのち」の問題の解決のために

堕胎(あるいは堕胎を目的とした人工妊娠中絶)についてひとはどういう受け止め方をしているか。いわゆるプロチョイスとプロライフの対立として語られる既成の認識パターンを超えて、堕胎をめぐる倫理的な問題を構造として捉えてみたいと思います。

柄谷行人が『世界史の構造』のなかで思考した交換様式になぞらえて、倫理様式という分類を考えました。堕胎をめぐる倫理様式A B C Dです。

<倫理様式>
A 堕胎は、いけないことである。だから、絶対にしてはならない。
B 堕胎は、いけないことである。しかし、仕方がない場合がある。
C 堕胎は、いけないとか、いけなくないとか、そういう問題ではない。
D 堕胎は、いいことである。躊躇なく、やりたいときにやるべきだ。

この4つのカテゴリーを4象限に分けて図示するなら、右上がA、左上がB、左下がC、右下がDになります。倫理の傾向を示すキーワードとして、横軸の右に「宗教」、左に「世俗」を置き、縦軸の上に「利他」、下に「利己」を置きます。Aに付けたタイトルは「カトリック」。ロー対ウェイド判決に最初に反対の声をあげた勢力です。Bはいちばんのボリュームゾーンになるはずですが、今日の”普通のひと”の倫理観を「日本人」に代表させたいと思います。Cのタイトルは「モダニズム」とします。それがいけないことかどうなのか、倫理的態度を保留する、善悪の彼岸に立とうとする姿勢も近代的自我の特徴です。そして、1973年の最高裁判決から始まった、堕胎に対する途方もない価値観がDです。ロー対ウェイドが切り開いた新しい地平であるがゆえに、Dを「ロー対ウェイド」と呼ぶことにします。

堕胎という社会問題の解決のために、さらには堕胎の背後にあるもっと大きな「いのち」の問題の解決のために、全米で堕胎を合憲とした最高裁判決ロー対ウェイドが覆る状況を見ながら着想したモデルです。まだ荒削りで十分な説明ができませんが、とりあえず以下に要点と狙いを概略します。

■プロライフとプロチョイスの二分法を超えて

堕胎の問題に関しては、プロライフ(Pro-Life)とプロチョイス(Pro-Choice)なる2つの立場に、判で押したように二分されるということになっています。堕胎に反対するプロライフ。堕胎を選ぶ権利を支持するプロチョイス。アメリカでは大手の世論調査で「堕胎に関して、あなたはプロライフかプロチョイスか」と聞くのが常です。30年にもわたって、双方の割合はほぼ拮抗しています。おおむねプロライフは共和党支持者、プロチョイスは民主党支持者と同じです。プロライフは「保守派」、プロチョイスは「進歩派」の代名詞になっています。

この安直な二項対立の図式に囚われる限り、堕胎をめぐる「いのち」の問題は永久に解決のゴールに向かうことはないでしょう。ライフ(いのち)かチョイス(選択)か、そのどちらか一方に自らの立場を決めることなどおそらくできないだろうわれわれ日本人は、アメリカの堕胎論争を対岸の火事として眺めるよりありません。そんな「日本人」が倫理様式Bのモデルです。

Bはプロチョイスでもプロライフでもありません。その両方でもあります。いけないことにはちがいないが、仕方なくしてしまう場合があるだろう。それはそっとしといてやろう…おおかたの日本人の堕胎に対する心情はこんな具合でしょう。でも本当はアメリカ人だって変わらないんじゃないでしょうか? 世論調査でプロライフと答えるひとも、プロチョイスと答えるひとも、その多くがどちらも倫理様式Bに位置付けられことになるはずです。”プロライフvs.プロチョイス”というフィルターを外せば、日本人だろうと何人だろうと、宗教をもたない”普通の”人間の立場はBです。

■日本人の変わらない堕胎に対するメンタリティ

堕胎罪と母体保護法(旧優生保護法)の合わせ技による「仕方がない場合」の中絶の運用を、いまの日本は比較的うまくやれていると思います。第二次大戦後の世界で初めて合法中絶を認めた優生保護法は、人口削減目的で外圧によって半ば強制的に導入された歪な法律で、高度経済成長期にかけて大量に中絶がおこなわれた結果、日本は取り返しのつかない人口減少国家になりました。そこに後にDを出現させる闇の力の爪痕を見ずにはいられませんが、合法中絶の導入によって日本人の倫理観が大きく変質させられることはなかったように思います。

堕胎、間引きが横行していた江戸の昔から今日まで、その間激しい時代の変遷を経験しながらも、日本人の堕胎に対するメンタリティは一貫しているのではないでしょうか。昔も今も「水子」に手を合わせる日本人にとって、「いけないことである。しかし、仕方がない場合がある」ものとして向き合う問題が堕胎です。堕胎に対するメンタリティが日本人のアイデンティティの一部を成していると言っても過言ではないでしょう。

堕胎が認められる「仕方がない場合」を母体保護法は「経済的理由」と規定しています。つまり堕胎が発生するのは貧しさゆえであるということです。戦後の焼け野原の時代ならともかく、経済的にゆたかになった日本にこの理由は不当であると考える向きもありますが、経済的理由は人それぞれ置かれた立場で異なります。誰にでも貧困はつきまといます。

堕胎は貧困問題である。それが真理です。

Dに惑わされることがなければ、あらゆる堕胎は貧困が原因です。上の子どもたちが養えないという理由で妊娠した3番目の子どもを断念する夫婦も、妊娠出産によるブランクがキャリア形成を難しくするとの理由でシングルマザーになることを断念する新入社員も、どちらもみずからの貧困に直面しています。「仕方がない」と諦めるしかないかもしれませんが、もっと周囲のサポートがあれば「中絶はしない」選択もあり得たでしょう。さまざまな貧困を解消するための社会の努力は、堕胎をなくすことに直結します。

また日本は「仕方がない場合」の期限を、胎児が胎外で生存可能になる週数ー現在は22週未満ーまでとしています。かつては25週でしたが、1990年に見直しがおこなわれ、翌年から22週に変更されました。医療技術の進歩により妊娠22週の胎児でも生存できるとの科学的理由から、「仕方がない場合」と認められる期間が短縮されたのです。これはロー対ウェイドの考え方に立てば、堕胎への制限を強化する”改悪”ということになりますが、当時バブル期の日本で「中絶の機会が減る」「女性の権利の侵害になる」といった、改正に反対する声が聞こえてくることはありませんでした。

最近のアメリカでも、ある保守系メディアの調査によればアメリカ人の大半が妊娠12週以降の堕胎は制限すべきと答えるそうです。”普通の”ひとのあいだでは「なるべくなら堕胎はないほうがいい」という社会的コンセンサスがアメリカにもあるのでしょう。交通死亡事故のようにゼロにはできないが、堕胎は「めったにないもの」であってほしい。そう願うだけでなく、”中絶ゼロ”に向けて取り組みをつづける「努力義務」が人間にはあるはずです。それは堕胎を目的とした中絶を違法とすることではありません。堕胎に合法的にアクセスすることはできるけれど、もはや誰もそれを考える必要がない(つまり貧困がない)社会状況になっている。堕胎という問題の究極のゴールはそこであり、それが倫理様式Bの可能性の中心です。

■プロライフの敵はプロチョイスではなくプロアボーション

倫理様式Aは、たしかにコアなプロライフのことです。プロライフ運動の前線を形成するのはカトリックなので、Aには「カトリック」とタイトルを付けましたが、Aには自分たちのたたかっている相手がDであるという自覚があります。Aは敵をPro-Choice とは呼びません。Pro-Abortionと呼びます。

「Pro」の意味に重きを置いて正しく定義するなら、プロライフとは「いのちを至高の価値とする者たち」であり、プロチョイスとは「選択を至高の価値とする者たち」です。プロライフは初めからプロチョイスはまやかしであることが分かっていました。実際は、プロライフこそ選択の自由を守る者たちです。プロライフの真の敵である「プロアボーション」とはすなわち、「堕胎を至高の価値とする者たち」ということになります。

堕胎を至高の価値とする者•••ん? 悪い冗談だろう。そんな奴おらんわと日本だとツッコミが入るところかもしれませんが、いるんです。それがDの正体です。堕胎を至高の価値とする、堕胎を福音と偽って世界に悪魔の価値観を伝播するアンチキリスト。そんな連中が、信念をもったプロライフを孤立させるために、BとCを利用して仕立て上げた幻想のマジョリティがプロチョイスだった、と考えることができるのではないでしょうか。

さて、倫理様式Cとはなんでしょう。そこは健全な言論人の”居場所”です。いわゆる「近代」がその居場所を確立させたがゆえにCを「モダニズム」と名付けることにしました。Cは、堕胎がいけないことなのかどうかわからないとする不可知論的なスタンスを取るがゆえに、Dに近いクリティカルな領域に見えるかもしれません。そしてCは無神論や共産主義を育む土壌でもあるので、しばしばAはCに敵対することがあります。しかし、昨今いのちと同じように危機に瀕している民主主義や言論の自由の拠り所となるのはCです。「ワクチンを打たない自由」はここに根差します。Cは純粋な「リベラル」の領域です。リベラルという崇高な概念を腐った果実に変えて世界中にばら撒いたのはDの仕業です。

■悔い改めの機会が与えられない堕胎はない

ABCのまんなかに人間が

AもBも、そしてCも人間が取り得る立場です。互いに対立することはありません。対立しないどころか、その重なり合いのうちに矛盾を抱えたリアルな人間像があらわれます。自分のいのちに代えても「最も小さい者の一人」を守りたいと渇望する情熱も、心拍も確認できない妊娠初期の胎児はまだ人ではないのだと割り切ろうとする愚かさも、人でなかったはずなのに、いずれ人になり得たいのちを捨ててしまった後悔を後々引きずる悲しさも、絶対的な他者であるはずの「最も小さい者の一人」を堕ろすことの倫理的問題から目を背ける不条理も、すべては人間であることの証しです。いずれも神から愛される人間の姿です。堕胎が人殺しであると認めるにせよ、取るに足らない過失であると思うにせよ、悔い改めの機会が与えられない堕胎はありません。堕胎から一切の呵責を排除するのはDが捏造したイデオロギーです。

Dは人間を否定します。

人間を否定するD

人間をモノ化し、トランスヒューマンに作り替えることを目論みます。Dとは実に「ディープステート」のDだったのかもしれません(!?) なにも陰謀論用語を持ち出さなくてもいいでしょう。ディープステートとは、アイゼンハワー大統領が退任演説の中で語った「軍産複合体」の別名に他なりません。より正確に言えば「軍産官学議会複合体」です。暴力を独占する軍事組織を中心とした諸権力の癒着が腐敗をうみ、あらゆる悪を許容する温床になります。その悪の温床がユナイテッドステーツの見えないところでアメリカ社会の基層を成し、人々をコントロールしていると信じられるがゆえにディープステートと呼ばれるのでしょう。

ロバート・ケネディJr.著「アンソニー・ファウチの真実」

軍産複合体が自分たちの利益のためにいかに周到にパンデミックを準備してたきたか。今回のコロナ騒動でステージの中心にいた各界の有力者たちの具体的な言動を追いかけながら、その”不都合な真実”を詳細に明るみに出したのがロバート・ケネディJr.です。アイゼンハワー大統領の後任のケネディ大統領の甥っ子です。暗殺された大統領の弟で同じく暗殺されたロバート・ケネディの息子です。両大統領と父の意志を引き継ぐロバート・ケネディJr.は、Dの側からは”陰謀論者”のレッテルを貼られています。

Dが標的にするもう一人の”陰謀論者”であり、プロライフの活動家たちからは熱狂的に支持されるAのカリスマが、ヴィガノ大司教です。バチカンをディープステートに並ぶ「ディープチャーチ」と呼んで非難する元駐米バチカン大使です。ヴィガノ大司教はディープステートに対抗する「反グローバリスト同盟」の結成を呼びかけていますが、それはアイゼンハワー大統領が訴えた「軍産複合体による不当な影響力の獲得を排除」するために、立場の違いを超えてAとBとCが一致協力することを意味するでしょう。反グローバリストの共同戦線となる”ABC同盟”の結成が求められているのです。

ヴィガノ大司教がAを代表する要人ならば、ロバート・ケネディJr.はCに位置付けられるキーパーソンです。モダニストである彼の揺るぎない立場はPro-Freedomと称えられることができるでしょう。プロライフのヴィガノ大司教の呼びかけが、堕胎の問題にはコミットしないロバート・ケネディJr.に直接届くことはないでしょう。けれども、中立的なBに位置するわたしたち日本人が両者の繋ぎ役になれるのではないでしょうか。

ロー対ウェイドがひっくり返った後のアメリカが本当に変われるか。そこに世界の未来が懸かっています。鍵を握るのは「日本人」です。

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