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メメント・モリを読んで思うこと

メメント・モリ
藤原新也(著)

久しぶりに「日曜美術館」を見たときに藤原新也さんが出ていました。「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」という言葉と写真をしり、本を探して買いました。

Memento-Mori「死を想え」と表紙に書いてあります。ペストが蔓延り、生が刹那、享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語です。

メメント・モリは「自分が死ぬことを忘れるな」という意味だそうです。芸術、音楽、漫画などでなんとなく言葉を聞いたことがありましたが、そういう意味と生まれがあるんだと初めて知りました。

どんな本か

藤原さんが世界各国で撮った写真に藤原さんの言葉をのせた本です。写真を見て一瞬で感じた言葉を書いているそうです。本の中に「此の世は彼の世である。天国もある。地獄もある。」という言葉と犬が何かを食べていてその周りにカラスがいる写真があります。その写真の後に「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」の写真があります。

この世で写真を撮ったときに、そこにあの世が写っている写真をまとめて1冊の本にしているのだと思います。言葉と写真から死と生を感じられる本でした。

著者の想い

いのち、が見えない。しぬことも見えない。今のあべこべ社会では、生も死もそれが本物であればあるだけ、人々の目の前から連れ去られ、消える。本当の死が見えないと、本当の生も生きれない。等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の生死を感じる意識を高めなくてはならない。

MEMENTOーMORI

この本は汚れれば汚れるほど良い。チベットの民がめくる仏典やイスラムの人々が何百年もめくっているコーランのように、汚れてメロメロになるまで、何年たってもめくって欲しいというのが願いだ。その間に、読者はわたしの言葉や写真のいくつを感じ、いくつを十分に解釈し、そして、いくつを乗り越えてしまうことができるのか。

墓につばをかけるのか、‥‥‥それとも花を盛るのか

『東京漂流』が「つば」であるなら、本書『メメント・モリ』は「花」である。それは、ニンゲンが本来的に持つ「憎」と「愛」の二つの現れだとも言える。

わたしは、あきらめない。


読んでのまとめスケッチ

印象的だった言葉と写真を書いてみました。

読んでの死への想い

「死ぬことが見えない」という言葉を読み、私たちの今の環境・世界では、死を遠ざけているように思いました。死ぬ時は病院で、面会できないこともあります。そういえば、生まれる時も病院で、立ち会いもできない時があります。どちらも非日常となって遠ざかると、なんとなく死を時々恐れながら、生きる日々をなんとなく続けていくようになってしまうのかなと感じました。

死が身近にある環境の(犬や鳥に食べられていたり、死体が焼かれていたりする)写真を見ることで、死を間近に感じることで、死を日常と捉えることで、生きていることの特別さを感じるという不思議な感覚を本を読んで得ました。

死に近づくことによって、死に対して、憎んだり、愛おしく思ったり、本来持つべき感情を持つことができて、今の普段から遠のいている生について想うことができ、「自分が生きていることを想い出す」ことができるのではとおもいました。


最後にそうかもなぁと改めて思った文章を紹介して終わります。

肉親が死ぬと、殺生が少し遠ざかる。一片の塵芥だと思っていた肩口の羽虫にいのちの圧力を感じる。草を歩けば草の下にいのちが匂う。信仰心というのはこんな浅墓な日常の経緯の中で育まれるものか。老いた者の、生きものに対するやさしさは、一つにはその人の身辺にそれだけ多くの死を所有したことのあらわれと言えるかもしれない。

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