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僕らの日常に奇跡はいらない

僕にとって犬が喋る作品といえば「マルモのおきて」だ。見たのは長男が生まれ、妻の実家で両親が出かけ、妻が息子を寝かしつけている中、ただ一人リビングで暇をしていた正月に、再放送を2話分見たという思い出の作品だ。話の内容を実は覚えていないのだけど、マルマルモリモリ♪の歌は印象的で覚えてる。僕の実家では昔、犬を飼っていて、3月3日に家に来たのでミミと命名した。名付け親は僕だ。久しぶりに帰った実家で、1歳になる次男を寝かしつけた時、和室に8年前に亡くなったミミの写真が飾ってあった。それを見て懐かしいミミとの思い出と、1人で見た犬が喋る作品のことを思い出した。ちょうどそんな時に、「ユンカース・カム・ヒア」という犬が喋る映画があることを知った。
 驚いたことに、その映画でしゃべる犬も「マルモのおきて」に出てきた犬と同じ犬種でミニチュアシュナイダーだ。名前を初めて知ったその犬に、喋る理由があるのかもと思い、調べてみた。頭がよく「最良の家庭犬」と言われているそうだ。人と喋ることができる!なんてことは、Wikipediaにもどこにも書かれてはいなかった。当たり前だ。

調べるついでに、ユンカース・カム・ヒアについても調べみた。小説は木根尚登さん(TM NETWORK:音楽バンド)が1990年に発行し、映画は佐藤順一さんが監督で1995年に上映している。マルモのおきては、2011年に放送されていたため、だいぶ差があった。
 検索すると色々出てくるもので、映画の内容までバッチリ出てくる。ネタバレ全開で書いてしまうと、『喋る犬は3回奇跡を起こせる。小学生6年生の飼い主の願いを叶えていく。1回目は、好きな人と恋人が別れてほしい。2回目は、その仲が戻ってほしい。3回目は、家族が離婚せず元にもとって欲しい。その後、犬は喋れなくなり、話は終わる』ようだ
 その内容を知って思ったのは、犬の奇跡ありきの話だと、その奇跡に人は頼ってしまうのでは?いうことだった。僕の38年の人生の中で奇跡が起きた記憶はないので、奇跡待ちの人生で生きていくことは割と厳しいんじゃないかと思う。主人公自身で問題を解決していく話に持っていった方がいいんじゃないかとなんとなく思った。そんな確認したいこともあり、小説と映画をみることに決めた。小説は以外と届くのに時間がかかり、映画は素早く手配できた。まずは映画から見てみることにした。

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主人公のひろみが、両親に本当の気持ちを後悔なく伝えることで、家族が望む日常を取り戻した。3回目の奇跡の後、朝のダイニングでの母親との会話でも、自分の思いを伝えていた。ユンカースが喋れなくなることによって、ひろみが自分の力でこれから起きる問題も解決していけると感じることができた。
 ひろみは学校では勝ち気で活発であるが、家ではお手伝いさんにも気を使い、休みの日に母親に遊園地に行こうかとを聞かれても、聞き分けの良い子供を演じている。独り言で両親揃って遊園地に行った時にどうなるかを楽しそうに想像しているので、いい子を演じていることに無自覚なのだと思う。
 子供は無自覚に大人の顔色を窺って話すことがある。そのため、望まない結果になることもある。それを防ぐには、自分の本心を認識する必要がある。映画では犬と話すことで、子供が自分の気持ちを整理している。親も子供の言葉から自分たちを見つめ直し、家族でお互いに近づいていく。自分の気持ちを相手とやりとりすることで、自分と相手とでお互いに自分を見つめ直して進める、そんなメッセージを感じた。
 親が子供にしたいことと子供が親にして欲しいことは違う。子供が思う親が求める思いも親が聞きたい思いとは違う。この映画は、子供が見ても大人が見ても感じるところがあると思う。僕が最初に思ったことをはるかに映画は超えています。割と恥ずかしい。

その後少しして、小説が届いた。表紙は映画のシーンでよく見た机に並ぶひろみとユンカースだった。読む前に本の後ろに書いてある説明文を見た。主人公が16歳で瞳と書かれている。誰それ?という小説のストーリー。いやいや流石にそれは違くないかと、目次を確認しようと表紙を捲ると、ユンカースが最初から読者に向けて全開で喋りかけていた。「吾輩は猫である」を彷彿するくらいの自己紹介っぷりに衝撃を受けた。犬は「僕の名前は、ユンカース。」と名乗っています。
 小説もネタバレ全開で書くと、『主人公は16歳で瞳だ。6歳の時に両親は別れている。買った犬がユンカースで喋る。そのことがきっかけが友達が事故にあう。自首した犯人が替え玉だと現場にいたユンカースにはわかる。真犯人を捕まえるために立ち回り、ユンカースたちが追い込まれて奇跡を起こす。そこで奇跡が3回起こせることと3回起こすとユンカースがいなくなってしまうことを知る。瞳が脳腫瘍にかかり、ほぼ助からない。再度奇跡を起こし病気を治す。そこでユンカースがいなくなる。喋るということが奇跡1回目という解釈で納得し、またどこかで会えることを期待して終わる』

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小説の主人公はユンカースである。しゃべって奇跡を起こす犬として登場し、いなくなった後もまだ戻ってくるという奇跡を瞳に願わせている。
 犬が主役で奇跡がメインのストーリーであり、小説自体は非日常のエンターテイメントとして成り立っている。でも、ただそれだけだったと思う。これを先に読んでいたら、映画を見ようと思わなかっただろう。先に映画を見ておいて良かった。

「ユンカース・カム・ヒア」は小説から映画になることで、ありきたりな非日常を楽しむエンターテイメントから、こうありたいと願うありふれた日常を送るためのエンターテイメントへと変化した。
 映画の最後、親子で話すシーンで、お互いの思いを伝え、その思いをお互いで認め、お互いがすれ違っていた日常をありたい日常に変えた。その後ユンカースが喋れなくなることで、ありたい日常はありふれた日常となった。その日常では、他者から自分がどう見られているかではなく、他者と接することで自分をどう見るかを考えている。そして、その日常を実現するには、他者と自分、お互いが自分を認識しあうことが必要だ。ありふれた日常を送るためには、本来喋る犬という奇跡はいらないくて、必要なのは、他者認識ではなく他者を介した自己認識であり、他者との会話だと思う。

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小説はダメだと書いてしまったけれど、小説がなければ、この映画もないし、ユンカース・カム・ヒアという小説も、他者の介入により、映画でより良い作品になったと思う。
 これは僕の妄想になるが、原作者の木根さんが映画監督の佐藤さんとの映画化を行う上で、ユンカース・カム・ヒアで伝えたいことを見つめ直し、その決意を文庫で示し、映画化を進めたのではないかと思う。その理由は、原作は1990年に発表されて、文庫は1993に発行、映画が1995に上映された時系列になっていて、その映画の前に発行された文庫の表紙が、まだ上映されていない映画の主人公ひろみとユンカースとなっているからだ。
 お互いが他者を介して自己を見つめ直し、話し合い、原作者の木根さんが音楽を担当し、佐藤さんが映像としてまとめた結果が、この映画であると僕は考えている。映画の中でユンカースがよく「素晴らしい」と言っていたが、僕も映画を見てそう思った。


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