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あの日の痛みを抱きしめる

あの日は、柔らかな春の日差しが降り注ぐ3月の穏やかな日だった。
私は小学校の卒業式に参列し、支援員として関わってきた子どもたちの堂々とした晴れ姿を感慨深く見つめていた。共に過ごした日々が懐かしく思い出された。保護者の方々と成長の喜びを分かち合えることが素直に嬉しかった。

ふんわりと温かな心を抱えながら帰宅する途中、何気なくスマホの画面を見ると、着信履歴があった。友人からだった。いつもラインでやり取りをしていたから、「おや、珍しい。何だろう」と首をひねった。
とりあえず、帰宅してスーツを脱ぎ、普段着に着替えた私は、卒業式に参列していて電話に出られなかったことを詫びつつ、「どうしたの?」とメッセージを送った。

しばらくして、思いがけないメッセージが目に飛び込んできた。
「今朝、息子が旅立ちました。今、病院にいますが、もうすぐ息子と一緒に家に帰ります。お時間があれば会いに来て下さい」
予期せぬ突然の出来事に動揺した。
体が硬くなり、呼吸が浅くなる。心臓が早打ちし、思考が停止する。
「落ち着け、落ち着け」と自分に声をかけるが、「どうしよう、どうしよう」と狼狽えるばかり。
最愛の子どもを亡くしたばかりの友人に会いに行く。考えただけでも恐ろしかった。
私はどんな顔をして会えばいいのか。何を言えばいいのか。
足がすくんだ。逃げたかった。
でも、息子の死という最も直面したくない現実に向き合っている友人のことを思うと、逃げ出せなかった。
何もできる気がしなかったが、行くしかなかった。

意を決して玄関のドアを開けて一歩外に出ると、午後の日差しが眩しかった。マンションの敷地内で楽しそうに遊ぶ子どもたちの歓声が風に乗って聞こえてきた。
足元がガラガラと崩れ落ちるような出来事が起こり、私は大きな衝撃を受けながらも必死に立っているのに、周りにはいつもと何ら変わらない日常があった。のんびりとした穏やかな時間が流れていた。
世界と自分とが切り離されて自分だけが浮遊しているような何ともいえない不思議な感覚だった。
私の意識はふわふわと漂ったまま、足取り重く、同じマンションの別棟にある友人宅に向かった。

エレベーターに乗り、友人宅の階に到着する。
Tくんを乗せたと思われるストレッチャーを運ぶ男性二人とすれ違った。ああ、やっぱりこれは現実なんだと思い知る。
玄関の前でしばらく躊躇した後、大きく息を吸ってからインターホンを押した。しばらくして、ドアが開き、泣きはらした友人が出迎えてくれた。

安らかな顔で静かに横たわる息子のTくんの横で、「何で死んじゃったの?」という友人の悲痛な叫びを聞きながら、私はただ抱き合って一緒に泣くことしかできなかった。友人の手を握り、彼女が落ち着くのを待つと、しばらくして彼女は今日起こった出来事を訥々と語り始めた。
Tくんがインフルエンザに罹っていたこと、治りが悪く、かかりつけ医を再受診したこと。今朝、突然容体が急変し、高熱で全身が硬直したため、慌てて救急車を呼んだこと。総合病院で手当てをしてもらったが、駄目だったこと。最期は、医師がTくんの全身に付いていた管を外して友人の腕に抱かせてくれたこと。そして、母の腕に抱かれながら息を引き取ったこと。
医師の話では、Tくんは肺炎を併発していたとのことだった。

悲しみに浸る間もなく、葬儀屋が打ち合わせにやってきた。
私は一旦、失礼することにした。
帰り道、この現実をどう受け止めればいいのか、当事者でない私に何ができるのかと途方に暮れてトボトボと歩いていたところ、別の友人にばったり会った。
いつもの笑顔で「あら、久しぶり。こんなところでどうしたの?」と聞かれて、「今日、友人の大切なお子さんが亡くなって、会いに行って来た」とだけ伝えて、言葉少なに別れた。
今思うと、あそこで友人に会えたのは幸運だった。喜びから悲しみの底に容赦なく突き落とされ、ジェットコースターのような一日だったが、彼女の存在にホッと癒され、体の力が少し抜けた。

その日の夜には、遠方に住む友人のご家族が新幹線で駆け付けるというので、私が運転する車で友人と二人で駅まで迎えに行った。
長い沈黙が車内を覆う。車の窓ガラスが曇るのではないかと思うほどの深いため息と「ああ」と漏れる嘆きの声が繰り返され、それが私の耳にこだまして、胸に突き刺さる。
「息子より一日あとに死にたいと思っていたけれど、こんなに早くその日がやってくるなんてね・・・」
と友人が呟いた。障がいのある子を持つ親の最大の心配事は、自分が死んだ後の子どものこと。母のその願いは叶えられたものの、14歳という若さで亡くなるというのはあまりに残酷だった。

あれから3年。
Tくんの命日が今年もやってきた。
あの日、友人が一人で震えながらTくんに向き合っていたことを思うと、今でも胸が締め付けられる。
命日の朝、泣き崩れるあの日の友人と途方に暮れる私の姿が目に浮かんだ。心の中で二人をそっと抱きしめながら声をかけた。

「今は辛くて考えられないだろうけれど、一緒に笑い合えるようになったよ。Tくんが乗っていた通学バスを待ち伏せして、運転手さん、添乗の職員さん、子どもたちに泣き笑い顔で手を振ったよ。近所のお花屋さんでTくんにお供えする花選びを楽しんでいるよ。食事を美味しく食べられるようになったよ。高尾山登山をしたよ。ヨガ気功に参加して気持ちよく体を動かしているよ。念願の高野山をお参りし、大好きな旅行を再開したよ。子ども食堂で一緒にボランティアをしているよ。瞑想の講座に参加したよ。カウンセリングを受け始め、カウンセラーに温かく寄り添ってもらいながら自分自身を見つめているよ。大丈夫、大丈夫」

あたたかな涙が自然と流れた。
その時、痛みと悲しみがふっと解けて光に変わったのを感じた。

そして今、
「痛みも悲しみも、今なお在るけれど、同時に安らぎも感じている」
と語る友人。

「なぜ息子は死ななければならなかったのか」
「あの日、息子は苦しみながら亡くなったのではないか」
「もっと自分にできることがあったのではないか」
「息子が亡くなったのは自分のせいではないか」

友人は、怒りや悲しみ、後悔、自責の念に駆られながら、少しずつ我が子の死を受け入れ、長くて暗いトンネルの先にようやくひとすじの光が見えてきたのかもしれない。

彼女を抱きしめながら、私は「ここまでよく来たね」という言葉を贈った。


その後、友人にインタビューして、記事にしたものがこちら。


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