見出し画像

気がかりに気づいて、人生を変えた。

ずっとなんか違うって思っていた人生だった。

心の中に何かモヤモヤしたものを抱えている感じがする。
でも、何かわからない。

「気がかり」
それは、人から何か言われた時に咄嗟に出ちゃう防衛反応で垣間見えたりするし、自然とその場から避けようとしている時に明るみに出ることもある。
でも、それが何かわからない。

これは、誰しもが心の奥底に抱えているかもしれない”気がかり”に目を向けた話。

そうしてきたこと

ずっと、そうしてきた。

宿題をやっていないのに「やった」と親に嘘をついてきた。
自分でもその場を正当化させ、遊びに行っていた。

友達の知らない話なのに「知ってる風に」辻褄を合わせてきた。
知ったかぶりをして、なんとかその場をやり過ごしていた。

まだ何も手をつけていないのに、あたかも進んでいる風に見せてきた。
後々の遅れを自分の労力でカバーした。

まだ数回しか経験したことないことを、なんでも知ってる風に話した。
本当に詳しくないけど、「あんまり詳しくないけどね」って言い訳をして。

嘘をつく・知ったかぶる・見栄を張る・話を盛る
ずっと生きてきて当たり前のように、やってきたことだった。
ずっとそうしてきたことだった。

でも、ずっと心のどこかには
あの時ちょっと親に嘘ついちゃったなとか、
やべえまた知ったかぶっちゃったとか、
チクリチクリ、残っていた。

「そんなのは誰しもが当たり前にやってることだよ」
って友達に言われなかったら、
ずっと救われなかったかもしれない。

いやそれ以前に、
おれの中でやっちゃいけない事だと思いすぎて、
他人に対してそれをしていることがバレちゃいけないと思っていて、
墓場まで持って行っていたかもしれない。

そして、自分でもいつの間にか
そうしていることを、見ないようになっていた。

ヘタしたら人生そのままずっと
心の中に大きな気がかりがモヤモヤと居続けていたかもしれない。

誰しもが心の奥底に抱えているかもしれない気がかり。
今回は気がかりがなんなのかを発見できた過程と、そもそも気がかりを抱えてしまった根本的な理由を赤裸々に語っていこうと思う。

気がかりに気づいた過程

では、ずっと他人にも自分にも嘘をついているということに、どのようにして気づけたか。

要素は主に3つ。
①自然、②才能、③対話
この3つが揃ったことで、自分の奥底にある気がかりに触れることができた。

①自然

環境要因である。
現在住んでいるNZは高いビルがない、家も所狭しと並んでいるわけではない、街を歩く人はまばらで、お店の中にも人は少ない。
それに加えて、街中には芝生の道があるし、道沿いには木が植っていて、公園には池と広い遊歩道があって、車で10分と行けば壮大な山々、青々とした放牧地が広がる。

不思議なことに、人間(おれ)はその環境に行ったおかげで
他人からの目線や見られ方を気にせずに立ち振る舞えるように変化し、取り繕わないありのままの自分で良いんだって思えるようになった。
この状態になれたことが、第一段階。

②才能

次に、「才能」という言葉に出会う。
才能については、ほかのnoteにも度々登場しているから詳細は省略する。

才能がどのように作用したか簡潔に伝えると、

自分が普段何気なくやっている言動・思考が他の人にとっては努力しないとできなかったり、普通は考えなくても良いことを考えてしまっていたり、
そういった「ついついやってしまうこと」全てが、自分にとっての才能かもしれないと思えるようになった。

自分にとってはちょっと考えすぎちゃって嫌だなと思っていることや、自分のマイナス面のことでも、
他の人からしたらすごいことだったり、
自分の意図していないところで当たり前にやっている行動が、他の人からしたらめちゃくちゃ大変な作業であったりする、そんなことが発生してくる。

自分の気づいていないことや自分がダメだと思っていた自分の特性も、もしかしたら才能かもしれないと考えられるようになり、生きているだけで何かしら才能を活かして、自分のできることを精一杯していると思えるようになった。
つまり、ありのままの素の自分でも何かできるんだって自分を肯定できるようになったのが、第二段階。

③対話

その第二段階にも含まれているのが、「対話」であるが、別の角度からの解釈も加える。

自分の解釈と他者の解釈を交換するみたいな、
自分の考え方と他者の考え方を伝え合うのが、
対話だと思ってる。

対話を通して、自分と他者を比較することができる。
自分の気づいていない特性を知ることができる。

それと同時に、他者に対してなんでその行動をしてしまうのか問いを立てることができる。

例えばおれの場合は、相手からのこの問いが刺さった。

「のすけは内側と外側を常に一致させたいって思いが、すごく強いよね。ほかの人と比べても、強いと思う。なんでだろうね。」

ここで何が起こったかというと、

この相手からの言葉は、
普段当たり前にやってしまっている自分の言動とか思考は、何を原因に引き起こしているんだろうか?という、めちゃくちゃ根本的な問いを植え付ける行為になっているということ。

つまり対話をして、相手の特性や自分との違いを言語化して伝えてあげることで、自分の言動・思考に対してそもそも何でそれをするのか?を自分自身に問うことをする、のが第三段階である。

三つの要素によって、

ありのままの自分でも何かできるかもしれないと自分を肯定できた中に、「外側と内側とを一致させようとしている自分」が存在していることを問われた。

自分の中でもほんとはちょっとだけ、なぜ一致させたいのか気づいていた気はする。でも言語化できていなかったし、したくなかった。

ずっとずーっと、ちっちゃく少しずつ、そうしてきたこと。
それが自分の中にどんどん積み重なっていた。

だから、いつの間にか
内側にいる真の本当の自分と、
そうしてきた外側の自分とで、
どんどんと乖離していた。

そうしてきたことは理解していた気がしていたけど、
ほぼ無自覚で、
ずっと言葉にしなかったし、見ようとしなかった。

でも、この3つの要素が重なった。

気づいたら、
「おれ、ずっと嘘ついてたわ・・・」
って生まれて初めて言葉に出していた。

蓋をしていた根本的な理由

人生の中でずっと抱えていた気がかりに、
ようやく気づくことができた時に
「なんでずっとそうしてきたんだろうか」
考えてみた。

答えは、
お前はできない奴だ、恥ずかしい奴だ、ダメな奴だ
って思われたくないからだった。

めっちゃしょうもないかもしれないけど、
でもリアルにずっとそうだったんだと思う。

原因は、トラウマと恐れ。

幼稚園の運動会のかけっこが大嫌いだった。

サッカーが好きで、いつも運動場でサッカーしてたし、
それなりに運動できるキャラでもやってた。

でも、実際かけっこでは3年間ずっと最下位、ドベだった。
ゴールしてから、手の甲に「4」って書かれることが
死ぬほど恥ずかしくて嫌だった。
ずっと、唾と手の汗で擦って、消していたのを覚えている。

別に周りの友達とかは何か言ってきたとかなかったと思うが、
単純にサッカーとかやってるのに、最下位の4位でダサすぎるし、めちゃくちゃ恥ずかしかったんだと思う。
これがトラウマになってる気がする。

そして、多分ちっちゃい頃から周りのことをよく観察したり、雰囲気を読んだりってのを普通にしてたからこそ、
みんながそんなおれを見てどう思うかな?できない奴って思うかな?
ってのを恐れていたんだと思う。

このせいで中学ぐらいまでは
人前で何かするのとか緊張したし、
みんなに注目されるのとかもそんなに好きじゃなかった。

高校以降表面的な分かりやすいところは少しマシになったものの、
根本的な恐れはあまり変わっていなくて、
今まで至っていた。

そして、その反動で身につけたのが
嘘をついたりすることだった。

自分を偽ったり、良く見せようとする事で、
自然と自分を守るようになっていった。

自分を守るために、
頑なにそうし続け、
いつの間にかデフォルトにまでなっていた。

お前はできない奴だ、恥ずかしい奴だ、ダメな奴だ
って言ってきた人は別にいないけれど、
ずっとそう思われるんじゃないかという恐れがあって続けてきた。

嘘をついたりすることがデフォルトになる一方、
自分の中での乖離状態は少しずつ進んでいたんだろうな。

気がかりに気づいたことでの変化

ずっとモヤモヤとしていた気がかりが何かわかった時、
自分を覆っていた殻みたいなのがボロボロと崩れ去っていく感覚がした。

やっと本物の自分になったような、
ようやく自分で自分の人生の上に立てているような、
そんな感覚。

そしてその理由も分かった時に、
自分ができない奴だって思われないように
行動していることって結構あるなって気づいたりした。

外側に対して良く思われたいとか、
良い感じに思われたいとか、
外側ファーストで、そっちに自分のことを合わせていっていた時もあった。

だからこそ、
外からの自分の評価がずっとしっくりこなかったし、
外からの見られ方を気にして生きていた。
そして、内側の自分の声を置いてきぼりにして、
どんどんと乖離していったんだと思う。

でも、
でもね
今回一番気づいたのは、
そうしてきた自分も自分なんだってこと

気がかりに気づいた時に、
視野がバババッて広がって、自分のこともめちゃくちゃ見えるようになった。

そうなった時に、
恥ずかしい奴だ、ダメな奴だ、できない奴だって思われたくないのって、
本当はみんなと仲良くしたいだけだったかもしれないなって思うし、
外側に良いように思われたいのって、
みんなのために力になりたいが故にやっていたこともあるだろうなって思った。
もちろん他にもたくさん理由がある。

外と内で乖離していたって思ってたけれど、
じゃあ今まで友達とかに見せていた自分の姿は全部虚像だったのかって言ったらそんなことはない。

もちろん、全部自分。
みんなからの評価とか、言われたこととか、なんかしっくりこないって思ってたのも、自分を客観的にちゃんと見ていなかったからしっくりきていなかっただけで、本当は全部一貫して自分でしかなかったんだよね。

つまり、気がかりに気づけたことで、
自分自身に対しての受容力がめちゃくちゃ高まって、
前よりも自分に対しての理解度が格段に上がった

お前はできない奴だ、恥ずかしい奴だ、ダメな奴だ
って思われないよっておれが思うことはもう少し時間がかかると思う。
だから、恐れから、そうしてきたことをまた発揮するかもしれない。

でも、恐れが少しずつ解消できるようになったら、
そうしてきたことも少しずつ無くしていけるかな。

今では、
自分のことを自分が一番許してあげられてると思うし、
一番話を聞いてあげられてると思う。

自分に素直に生きようってこういうことなのかもしれない。
気がかりを無くして、ようやく意味がわかった。

人生の大きな変化、
自分のことをもっと受け入れるようになった。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?