センシティブな事柄に切り込む-やわらかく説明する宗教-1

ある事情から目立ち、宗教が話題になっています。
時流に流されず、
てか、そもそも宗教ってなによ?
そう思ったあなたはすごく賢い。

今回は宗教のお話です。

宗教ってなによ

宗教ってなによ、実際それを意識するケースはもしかしたら少ないのかもしれません。
宗教活動というときには、例えば神社に参拝してお賽銭を投げる行為やお祭りに参加することも宗教活動への参加と言えるでしょう。
その時に霊的なというか第六感的に、神を感じたりする人は少ないかもしれません。

宗教体験、という言い方をしますが、人間という身体の中に神や仏のような存在、あるいは自然の中にある言葉にできない者に触れることがあり、その中で畏敬の念や、尊敬に近い感覚になること、俗っぽく言えばなんかゾワゾワっとすげーって思う時には宗教体験をしたといえるかもしれません。

視点を少し変えてみると、宗教は何かを信じることでもあると思います。
それは科学的なことでもいいのです。
科学や医学の学問は宗教と実は親和性が高いものです。証明された事実は信じやすいからでしょう。

数学も宗教

僕らが触れてきた忌々しい数学という学問もかつては宗教でした。ピタゴラス。ピタゴラス教団という数学によって世の中を解き明かそうとする宗教があった程です。

科学は数的な証明を必要とするので数学を使います。医学も数的な証明が必要で数学を使います。
このへんでお気づきかと思いますが、僕らは宗教によって成り立った事柄で相当に宗教と関わっていたりします。

物事というのはいいとこ取りが難しいものです。
自分は宗教なんて関係ない。
ただ数学をやってるだけだ。知ってるだけだ。
と言っても、それを活用して動いているものからの影響をセンシティブに人間は受け取ってしまいます。

キリスト教の象徴的な場面。
知恵のリンゴ。

読者のあなた、もしくは友人の方の
iPhoneの裏側をご覧下さい。
知恵のリンゴがかじられていますね。

無意識というと便利すぎてずるい感じがしてしまいますが、事実として人の脳は無意識に刷り込むことが可能です。

宗教なんて、とお思いの方は
知らないうちにこの時代の宗教に
既に取り込まれているかも知れませんね。

だって、カルト宗教に入った人はそれをカルトとはおもっていないのですから。

信じるものがないのは危うい


特定の信仰を持たないというのは一見すると、すごいことのように思えますが、信ずるものがないとも言い換えられますね。

信じるものがない、というのは自分の存在や親、周りの事象に確からしいものがないということですので、もしそんな言い方をしているなら、それは有り得ないことですのでそんな言い方は辞めましょう。

パワーや運気を信じる人もいます。
信仰は持たないけれど、なんとなくそういうものがあるような気がする。感じ取れるというケースです。それは立派な宗教的精神と言えるかもしれません。

アニミズムという自然崇拝は原始的な宗教です。
人間という生命体なら、それを感じない人はいないと言う人もいます。そういう感覚を持つ方はそれを大事にしましょう。

原始的な宗教から発展して、
キリスト教や仏教などが発展し考察されてきました。
これらは人間がよりよく生きるためのこうさつです。
しかしながら完璧な教義を作ったとしても、
人はなにぶん過ちをおかします。

そればかりか教義を悪用する人間が必ずと言っていいほど誕生するので、内部的にも外部的にも批判の的となってしまうようです。

国家と宗教

そういった中で国家と宗教ですが、
政党が特定の信仰を持って支持されてようとも
国家としての地位について
その他大勢の国民に同じ思想宗教を
強制してはいけないのですが、
国家に宗教を持っている人が
かかわってはいけないことはなく

ここまで読んできた方ならわかると思いますが

(宗教を持たない人はいないのだから)

政党が特定の支持されてるのは問題ない

国家に政党として意見を言うのは問題ない

というざっくりした構図になります。

ところが、国家から国民となると話は変わります

国家は

民衆に宗教を押し付けてはいけない

これがわかりやすい理屈でしょう。

今回の件で浮き彫りになるのは、
カルト宗教(定義が曖昧で私はこの用語が正しいとは思いませんが一般的な語句として)が献金や票集めを議員の為にしていたということろと
それだけのお金や人を非人道的なやり方で収集していたというところに問題があるのでしょう。

宗教には神聖で不可侵な領域がありますが、
(それは同時に体験したりやらないとわからない領域でもありますが)
国家を揺るがすような宗教団体や宗教活動は許されないでしょう。
やるならルールの上でやってくのが宗教法人のやり方。
もちろん、個人レベルではどんなことを信仰しててもいいんですが、他との兼ね合いで初めて問題が出るものです。

分かり合うための理解力と最低限の宗教についての知識は備えておきたいですね。

死なない人はおらず、親の死に目に宗教の問題が出ないことはありません。
宗教を考えることは臨終=死を考えることで、
死を考えることは生を考えることでもありますから、ご自身のためにぜひお考えいただきたいところです。



斑鳩入鹿

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?