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バンドをやりたくて上京。そして性懲りも無く今も続けてる。1990年代〜編⑫(MOO-COW中期)

前回の記事からだいぶ空いてしまいました。

ここ最近の世の中の動向に気が滅入りっぱなしで正直、過去のバンド歴のことなんか書いたところでどうなんだろう?という気持ちになっていました。

自分は良くも悪くもいろいろなことに影響されやすく外的ストレスに弱いのだと思う。

日本の片隅でおっさん一人がメソメソしていてもそんなものはなんにもならない。

知識を得ることを怠らず、自分なりにできることをして日々を丁寧に生きるしかない。

口で言うのは簡単だけどね。


前回はMOO-COW結成のきっかけまで書いたと思う。

練習は高円寺のスタジオ「アフタービート」というところで行っていた。

曲も順調に出来ていったが、メンバーの中ではドラムのキムラ君だけが初心者。最初のうちは思うように叩けず苦労していて、一応リーダー役だった俺も「音が小さいよ!」なんてキツいことも言った覚えがある。当時は彼が今みたいな強烈なドラマーになるとは想像もつかなかった。

MOO-COWは国内外問わずhardcoreが大好きなキムラ君、メタリックなものからオルタナ系まで幅広く好きなヒロ君、Hi-standardに影響を受けた世代かつlip creamやdischargeといったhardcoreもしっかり聴いていたジュンワン君、そしてスカム系のバンドを通過してからあらためてpunk〜hardcoreを聴き直していたという妙な経歴の俺。

最新型でもなく、スタイリッシュさ(パンクだろうがハードコアだろうがスタイリッシュなバンドというのはいるものだ)とも無縁だったけど各自の音楽的嗜好とピュアさと野暮ったさが混ざり合ってそれなりの個性を出していたと思う。

スタジオでは「ライブ中にどれだけ高くジャンプできるか」の練習もよくしていた。当時のライブ写真を見るとサッカーをやっていたというジュンワン君のジャンプが群を抜いて高かった。(運動神経の無い俺は当然一番低い)

確か最初のうちは高円寺の旧20000Vでライブをやっていて、そのうち渋谷にあったギグアンティックや西荻にあったWATTSでもやるようになったと思う。

最初のうちはブッキングが多く対バンもミクスチャー系から、EMO系、メロディック系、パワーバイオレンス系となんでもありだったがそのうち横の繋がりが出てきて、音楽性が近い企画にも呼ばれるようになっていった。

後に大きな規模となるSET YOU FREEや、今でもアンダーグラウンドでずっと続いている企画burst your noise にも出たりした。

あと個人的に印象深いのは練習スタジオでの企画、いわゆる「スタジオライブ」というやつだ。(前述のburst your noiseも当時は市民ホールや貸しスタジオで行われていた)

この頃はなんとなく第二次バンドブームみたいな雰囲気もあり、世間には明らかに売れ線を狙っているような人たちも居たが、当時の俺はアンダーグラウンドシーンに対するこだわりのようなものがあったので、まるで海外のD.I.Y.シーンのようなスタジオライブはたとえお客さんが少人数でも商業ベースとは違うなにか新しいことに参加しているような気分になった。

MOO-COWの歌詞にポリティカルな要素は無かったけど、音楽的にはポップさを出しつつもちゃんとパンクの荒々しさは残したかった。

だんだんバンド仲間も増えていって毎月のライブが楽しくてしょうがなかった。

そしてあるレーベルからはCDを出してもらうことも決まった。

だが楽しいのも束の間。 

いろいろとあってこの後、俺はしだいに酒浸りになって行くことになります。


※見出しの写真はMOO-COW中期〜後期のもの。CHANIWA、VIVISICKと一緒に行った神戸でのライブ。

この頃少しずつ70'sスタイルのパンクも聴くようになっていて「ステージでは襟のあるシャツを着る」という変なこだわりを持っていました。





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