統合失調症の周辺
統合失調症の周辺についてたらたらと紹介しています。
随時書き足していきます。
接枝分裂病など
今はなき「接枝分裂病」って知ってる?
またまた昔々のそのまた昔の話です。
統合失調症がまだ精神分裂病と呼ばれていた頃(大昔は早発性痴呆と呼ばれていました)、精神分裂病は「緊張型、妄想型、破瓜型」に分類され、この定型外のものが「非定型精神病」とされていました。
非定型精神病については、定型精神病(3大精神病)を「精神分裂病、躁うつ病、てんかん」とし、それ意外を非定型精神病とするということもありました。
てんかんは今は精神科疾患からは除外され、独立した疾患とされていますが、精神疾患やや知的障害を併発することも珍しくはありません。
精神分裂病・・・、まだDSMがぁ、ICDがぁとも言われていなかった時代です。
ちなみに、かつての精神分裂病はそのまま統合失調症に置き換えられたわけではありません。
精神分裂病が細分化されて統合失調症とは別な疾患に置き換えられたものがいくつもあるんだね。
そうそう、まことしやかに「プレコックスゲフュール(精神分裂病臭さ)」なんてことが言われていました。
プレコックスゲフュールは精神分裂病の人が醸し出す独特の雰囲気(異和感)というか、彼らと対峙したときにこちら側に起こる特異な感覚のことで、これが精神分裂病診断において重要な要素だと信仰のように思われていました。
患者さんが診察室から帰るその後ろ姿を見て「あ、これは・・・」っと精神分裂病と診断できたなんて話もあって、プレコックスゲフュールへの感受性はある種の職人的達人技のようにも言われていました。
しかし、残念ながらあくまで個人の経験的主観的感覚なので、科学的エビデンスはありません。
今は表向きプレコックスゲフュールが議論されることもなくなってきましたが、ベテランの精神科医や、私のように昔々の精神病院に長くいたようなコメディカルの方々のなかには、今でもこのプレコックスゲフュールを大切にしている人々がいて、私もその1人です。
実は、精神分裂病に限らず、病気によって対峙した時の感覚はそれぞれ独特なものがあるのです。
こういう感覚を磨くことが臨床家として大切なことでしたが、今では鼻で笑われますね。
こういう風潮を私はとても残念なことだと思っています。
今の日本ではもう職人が育つということをあきらめなければならないのかもしれませんね。
精神分裂病には、さらに混合精神病や接枝分裂病と言われるものがありまして、これらは精神分裂病と他の病気が重複したものです。
「混合精神病」は精神分裂病とうつ病または躁うつ病が重複したものですが、今は「統合失調感情障害」というふうに分類されています。
非定型精神病とも混同されることもありますが、非定型精神病とは別ものです。
ただ、非定型精神病については諸説ありまして、曖昧なところがあり、最近は使われなくなっています。
さて、ようやく「接枝分裂病」ですが、「接枝」というのは接ぎ木を意味する言葉で、精神分裂病に何かが接ぎ木されているということです。
何かというと知的障害です。「精神分裂病と知的障害が重複したもの」を接枝分裂病と呼んでいたのです。
もう少し正確にと、もともと知的障害のある方が精神分裂病を発症してしまったということです。
今でしたら、統合失調症と知的障害の2つの診断名がつきます。
ただ、接枝分裂病には知的障害の方々によく見られる心因反応(反応性精神病)や、今でいう「愛着障害」や「強度行動障害」や「PTSD」による解離やフラッシュバック、さらには「自閉症」や「発達障害」までもが整理されないまま混沌とした状態で含まれていたので、いわゆる精神分裂病だったのかどうかは疑問の残るところです。
知的障害のある方々は一般的にストレス体制が低く、情動コントロールがうまくいかないために、心因性の反応として一時的に精神病状態になってしまうことが起こりやすいのです。
ただ、この心因性の反応というのも「混迷、解離、フラッシュバック、錯乱、幻覚妄想、さらには興奮、暴れる」などを含むものですので、曖昧なものとも言えます。
では「知的障害」とは?
医学的には精神遅滞や精神発達遅滞と言いまして、教育や行政的には知的障害と呼んでいますが、今では知的障害という呼び方がスタンダードになっています。
ちなみに、18才を過ぎてからの能力低下は知的障害とは言いません。
かつては精神薄弱と言われ、軽度なものを魯鈍や軽愚、中度なものを痴愚、重度なものを白痴と呼んでいました。
DSM5では「知的能力障害」と言います。
数年前の厚生労働省の調査によると日本には知的障害の方が約108万人いることになっていますが、実数はもっと多いと思われます。
知的障害は18才未満の発達期に生じた、認知、思考、言語、運動、社会性、生活能力、対人交流、など暮らしていくための全般においてその機能や能力に障害があり、また経験から学んだり、環境に適応することが困難な状態を言います。
さらに、その程度によって軽度、中度、重度、最重度と段階分けされています。
判断基準のひとつとして、いわゆる知能指数(IQ)がありますが、「50~69が軽度」とされ、知的障害の8割がここに入ります。
簡単な計算や読み書きはできますが、金銭管理や優先順位をつけ計画を立てたり、抽象的な思考は難しいです。
日常的な身の回りに大きな支障はあまりありませんが、コミュニケーションなどがうまくいかないことがあります。
車の免許やちょっとした資格を取得することも可能です。
周囲からは気づかれにくく、本人の努力不足や性格的な問題だと思われ、子どもの頃からダメ出し、努力の強要を強いられ、二次障害として他の疾患や問題を抱えやすいと言えます。
「中度は知能指数が35~49」で、全般的に小学校低学年程度の能力で、理解力も低く日常のコミュニケーションにも困難をきたすことがあります。身の回りを含め生活全般的に継続的支援が必要ですが、丁寧な支援や教育によって身の回りや簡単な家事ができるようになったり、環境や職種によっては就労も可能です。
「重度は知能指数が20~34」で、食事や着替え入浴など生活全般において全面的な介助が必要です。
言葉や数、時間やお金の概念理解が困難で、コミュニケーションは単純な確認程度のことくらいまでしかできません。
「知能指数19以下は最重度」と分類されていて、排泄を含めた生活全般において全面的な介助が必要で、意志疎通は極めて限定的と言えます。
知能指数(IQ)はあくまで参考基準であり、知的障害は日常生活水準や社会性などの要素も考慮したうえで判断されるものです。
知的障害は、他の疾患や障害と重複して併発することが珍しくありません。
軽度や中度の方々は、成長にともない本人なりの生き残りスキルを身につけて大人になってきますが、時にソレ自体が様々な困難につながり、二次障害を併発することになったりします。
ちなみに、「70~84を知的障害と正常知能のボーダーライン」とか「グレーゾーン」と言います。
このくらいですと、ちょっとした大学に入学することも可能ですので、日常のやりとりではわかりにくいですし、本人も周囲もそういうことだとは気がつかないことがほとんどです。
あるパーソナリティー障害のタイプをボーダーラインと呼んだり、発達障害と定型発達の間をグレーゾーンと呼んだりもされていますが、それらとは別です。
正常知能はIQの標準値を100として、±15、つまり85~114が平均とされていて、人口中の80%がここに収まります。
高知能と言われる人はIQ130±15、つまり115~144で、人口中25%がここに収まります。
超高知能はIQ145以上を言いまして、人口中0.4%しかいません。
知能は高ければ良いかというといちがいにそうは言えないのです。
知能が高いことにより、コミュニケーションや共感がうまくいかない・・・なんてことがあるようです( ̄▽ ̄;)
私にはわかりませんけれどね(^_^;)
多飲症と水中毒
精神科医療にたずさわったことのある方でしたらご存知かと思いますが、「多飲症」と「水中毒」というのがあります。
取り憑かれたように一日中大量の水を飲むという症状を多飲症といいます。
私たちが1日に必要な水分量は、食事からの摂取も含めて約2.5リットル(2.5リットル中約半分が食事から摂取される)と言われていますが、多飲症の人はひどいと食事以外に1日に10リットル(特大のやかんが10リットルです)以上の水を飲みます。
吐きながらでも飲みます。
時にこれがコーラだったりする人もいます。
統合失調症や薬の副作用などによると言われていますが、明確な原因は不明です。
日本の収容主義的な精神病院への長期入院という環境要因も影響があるようです(欧州などの収容主義ではない国では多飲、水中毒はあまりみられないのです)
ダイエットや摂食障害、アルコールや薬物の依存症がきっかけや引き金になることも珍しくありません。
または、基礎疾患に「シェーグレン症候群」や内分泌疾患がある方々もいます。
実は、糖尿病による高血糖が続くと体内の水分が多量に使われ(多尿にもなる)脱水状態になり、大量の水分を必要とするため、多飲となります(ペットボトル症候群)。
これが続くと血中のケトン体が過剰となり「ケトアシドーシス」という命にかかわる状態になります(意識障害などをともなう)
実は私、短期間で一気にここまで悪くなっており、危ないところでした(^_^;)
多飲症は、当然食事も摂取できず、頻尿、下痢、体重の極端な日内変動(起床時と昼、夕方で大きな差がある)、嘔吐、頭痛、めまいがあり、体内の電解質バランスが崩れ、低カリウム血症、けいれん、意識障害や錯乱、呼吸困難を引き起こし、命にも危険をおよぼします。
なかには幻覚妄想がひどくなったりすることもあります。
このような多飲により引き起こされる状態を「水中毒症」といいます。
多飲や水中毒の治療は、水分制限やナトリウム補充、向精神薬の調整、生活習慣の改善などが中心となりますが、現実は多くの困難をともない、なかなか大変なのが実情です。
あまり知られていませんが、実は珍しくない案外深刻な多飲や水中毒症について紹介してみました。
悪性症候群とセロトニン症候群
今回は悪性症候群とセロトニン症候群と薬剤性パーキンソニズム(パーキンソン症候群)という向精神薬による副作用について……
ご存知のように私はお医者さんでも薬剤師でもありませんので、私の知る範囲でのご紹介にすぎませんのでご承知おきください。
最近はあまり見られなくなりましたが、昔は時折みられた向精神薬による重篤な副作用(昔は多剤乱用と言える大量の向精神薬を服用させていたのが要因か?)で、高熱、意識障害、筋硬直、嚥下困難、尿閉、腎不全などをともなう多臓器不全で死に至ることもあるのが「悪性症候群」
「悪性症候群」は薬の増量などから数日から数週間の後に発現しますが、服用後数分から数時間で発現する副作用があります。
それが「セロトニン症候群」で一部の抗うつ薬の服用によって引き起こされることがあり、悪性症候群と同様の症状があらわれますが、興奮、不穏、錯乱をともなうことがあります。
向精神薬の長期多剤服用によって起こりやすく、筋硬直、動きが緩慢になる、表情がなくなる、声が小さくなる、歩幅が小さくなる、手が震える、ふらつく、よだれが出る、落ち着きがない、体の一部が勝手に動く、他、パーキンソン病と同様の症状があらわれることがあり、これを「パーキンソニズム(パーキンソン症候群)」と言います。
薬剤性パーキンソンの多くはジスキネジア、アカシジアなどの錐体外路症状を併発することが多く見られます(ジスキネジアやアカシジアについてはまたあらためて)
最近の精神科医療においては、新しい薬の登場とともに多剤併用から単剤処方になりつつありますが(精神科医療は手探りの歴史とも言えます)、とはいえ病気や症状によっては数種類の薬が必要になります。
数年前から精神科における多剤処方が問題視されはじめ、それにともないベンゾジアゼピン、エチゾラム等の乱用の問題も取り上げられるようになってきましたが、ベンゾジアゼピンやエチゾラムを第一選択とせざるを得ない患者さんや、統合失調症の一部の症状にはベンゾジアゼピンやエチゾラムを処方することが必要な患者さんもいるのです。
確かにベンゾジアゼピンやエチゾラムは慎重に……ではありますが、あまりに神経質になりすぎてしまうのもなぁ……
いまだに多剤処方をされ、副作用どころか薬によっておかしくなっている患者さんがいますが、だからといって安易に勝手に断薬や減薬をするのは非常に危険です。
依存症界隈では医療機関からの処方薬やドラッグストアで買える市販薬の危険性についてはよく知られていますが、一般の方々の認識はどうかしら?
昔々の精神科における多剤処方というのは、それはそれは大変な量でした(薬漬け…と批判されていました)
多剤処方と関連があったのかどうかわかりませんが、約30年の精神病院勤務のなかで「狂い死に」といえるような方を数例見てきております。
錯乱状態のまま絶命してしまうという悲惨な亡くなり方をした方がいました。
本来治療のための薬ですが、時にその薬に苦しめられたり、命にかかわることにもなる場合があります。
だからといってむやみやたらに薬を忌み嫌うのはオススメできません。
少しでも苦痛を緩和し、少しでも快適に楽に暮らすことを助けてくれるのが薬なんだと思うのです。
統合失調症家族教室
様々な市町をはじめ地域の行政が主催する「統合失調症家族教室」にお招きいただいてきました。
統合失調症をどのように理解し、日々ご苦労なさっているご家族の方々の対応の工夫についてお話させていただいております。
統合失調症の背景にある諸問題と、統合失調症からひきおこされる二次的問題について。
案外、何をするかではなく、何をしないかが大事だったりするよ。
症状にとらわれない方がいいよ。
全てを病気のせいにしない方がいいよ。
不安と恐れでダメ出ししない方がいいよ。
本人の苦労を取り上げないようにしようね。
あまり一生懸命何とかしようとしない方がいいよ。
たくさんの人や場所に助けてもらえるようにオープンにしておくといいよ。
良くなるということと、めざすところについて。
医療や福祉以外の切り口や支援の必要性と可能性について。
家族自身が少しでもごきげんでいられるようにすることを優先しようね。
といったことについてお伝えさせていただいております。
空虚感
とか、虚しいと言ってしまえばそれまでですが、表現できるような言葉がないといった方がふさわしいのかもしれない。
ソレは、幻覚妄想といわれるような症状や、激しい自傷行為や、自死をもってしても埋まらないもののようです(゜ロ゜)
ミヒャエルエンデの、はてしない物語(ネバーエンディングストーリー)に出てくるような、世界が「無(虚無だったかな?)」に乗っ取られていく感覚(基本的安全感の崩壊とか自明性の喪失などと言われます)は、想像を絶する不安と恐怖をともない、そこから逃れるためには、それを凌駕するような症状か、一切何も感じない状態になるしかないわけで、それが統合失調症という病の中核なのかもしれません(゜ロ゜)
私達が容易に理解できるような言葉を超えているんじゃないかしら?
これまでに多くの著名な学者さんがどれほど言葉を尽くしてきていても、なかなか理解に近づけないのは、言葉が及ばないということなんじゃないのかな?
それでも長い間彼らに接していると、たぶん近いであろう感覚にさらされることがあるのです。
その恐怖とは裏腹に、ちょっとだけかれらに近づけたかもしれない(そうじゃないかもしれないけで)なぁとも思うわけです。
一般の方々が彼らと接することによって感じる不安や恐怖は、彼らから漏れでたものに触れるからじゃないかなぁ?(ある種の感染とも言えます)
はい、一般の皆さんが感じている不安や恐怖の何百倍、いやもっともっと大きな不安や恐怖にさらされているのが統合失調症の方々なのです。
それほどの恐怖をともなうものが「虚無」に侵食されるということなのです。
なんとなくわかっていただけるかな?
わかんないよねぇ…( ̄▽ ̄;)
プレコックスゲフュール
今どき、こんなことを言っていたら、時代遅れも甚だしいのかもしれませんが、個人的には大切にしている感覚です。
というか、時代遅れの人なんです(^^)v
「プレコックスゲフュール」というのは、昔々その昔、オランダのリュムケという精神科医が提唱したもので、経験に裏打ちされた主観的感覚的なものであるがために、表の診断ツールとしては使うことがはばかられてきましたが、長い間多くの熟練者には重要な感覚とされてきました。
何かと言いますと、独特な異和感、とでも言いましょうか…?
疾患ごとに共通の特徴的雰囲気のようなものがありますが、特に統合失調症についてのソレをプレコックスゲフュールと言います。
プレコックスゲフュールに限らず、こういった感覚的なものから得られるものは案外重要だと思っています。
もちろん充分慎重に扱うべきものであることは承知しています。
なかでも、後ろ姿から醸し出されるものは大切だと思っています。
例えば、対面で話をしている子どもが、随分しっかりしていて、大人びたことを言い、的確な状況判断や、自己分析までできていると、すごいなぁ、とても思春期の子どもには見えないなぁと思うわけです。
ところが、その子が帰るときの後ろ姿には、まだまだ思春期以前の子どもっぽさというか、幼さが見てとれることがあるわけで…、
そっか、この子は、まだ語られないたくさんの事情があって、随分頑張って、背伸びをして、たくさん我慢して、無理してしっかりしてこないといけなかったのかもしれないなぁ、ってことがみてとれることがあるわけです。
まぁ、私の勝手な思い込みでもありますね( ̄▽ ̄;)
こんなん言うてるとインチキスピ系(インチキじゃないスピ系ってあるのか?、笑)の怪しい奴だと思われちゃいますね(((^^;)
安心してください、決して怪しいおっさんでありますから(((^^;)
私達は多面性を持っておりまして、場所や相手や状況によって、見せる顏を、時には無意識に自動的に、時には意図的に操作的に使い分けています。
今ここで見えているものが他のものを隠していて、隠されているものは、様々なかたちで漏れ出てくるわけです。
それが、ある種の方々に共通の特徴を持ったモノとして認識されるわけです。
とはいえ、それらはあくまで補助的な要素にすぎません。
でも、この補助的なモノが重要なんです♪
どっちやねん?(>_<)
リズム
かつてサンバのリズムが統合失調症という病気に良いと言われていたことがあります。
統合失調症には2拍子が良いと言われていたこともあります。
それで、病気が治るわけではないが、暮らしや対人関係が安定し落ち着くということが言われていました。最近はどうなんかなぁ?
実はこの手のことをすっかり忘れていましたが、あるきっかけから、あ、そういえば…と思い出したわけです。
きっかけというのは、ある方から歌舞伎のお囃子のリズムが一部の発達障害圏の方々の安定にとても良いようだ、と聞いたのです。
ある発達障害の方は一定リズムで繰りかえされるバイクのヴォンヴォンという音を聴くと落ち着くと言っていました。
残念ながら、根拠はよくわかりません。
私達が一般に好きとか心地よいというものとは違うようです。
確かに一定リズムが繰りかえされるというのは、心音や、小さな子どもへのトントンってのと似ているかもしれませんので、気持ちが落ち着くということはあるのかもしれません。
疾病別に親和性の高い音楽やリズムがある可能性は否定できませんね。
ちなみにアラビックミュージックやパーカッショニストには、なにか共通性があるのかなぁ?
思考化声とヒアリングボイス
車生活が中心になっていて、人混みのなかに身を置くことがあまりないのですが、最近バス地下鉄に乗り、人混みのなかを歩いたり、自転車で移動することがパラパラとあるのね。
今まで気がつかなかったことが発見というかたちで気付いたりしてなかなかおもしろい。
運転しながら歌っている人はよく見かけるが、最近歩きながら、自転車乗りながら、コンビニやスーパーで買い物をしながら独語空笑をなさっている人が意外に多いのには驚いた。
独語空笑というのは、独り言や独り笑いってことね
統合失調症などの病気の症状として比較的よくみられるけど、私が見かける方々は皆さん病んでいるわけではなさそうなのね。
ブルートゥースなどでワイヤレスで通話をしている方々が増えていて、何というか、その・・・、ねぇ(^-^;
独語空笑は他の症状の二次症状としてあらわれていることがほとんどで、ベースの症状のなかに「思考化声」ってのがあるの。
考えが声になって頭に響いてくるという幻聴の一種ですが、さらにそれが取捨選択されず自動的に自分の口から独り言としてでてしまうことになってしまうのね。
また、頭のなかに声として響いてくることで実際に喋ったことになっている方々もいて、彼らは外からみると緘黙つまりほとんど喋らないの。
一般の方々にそのような傾向が見られるようになったのか、私達にはもともとそういう傾向があるのか?
統合失調症の病理の一つに「漏洩」というのがあって、普段私達は考えたり感じたりすること全てを外に出しているわけじゃないけど、統合失調症の方々はそれらが勝手に外へ漏れ出てしまうの。
今ここで、こんなことを言ったりやったりしちゃあまずいよなということ、つまり自分が今どんな状況にいるか、他人からどう見えるかを意識して自分の言動をコントロールできなくて、垂れ流しになってしまうのね。
病気とは言えない普通の人々のそういう力が弱くなってるような気がするのは私だけかな?
もうひとつ病的症状とはいいきれないものに「ヒアリングボイス」と言われるものがある
健常者といわれる人々の中にも、幻聴のような声が聴こえる人がいるのね。
中にはいろんなものが見える人もいるらしい。
彼らはごくあたりまえに何の問題もなく普通に生活をしているの。
どうやら健常とやらいうものがさほど確かなものではなさそうね。
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