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忘れたくない景色

とてもいい朝だった。
車を運転している時に泣けてきた。
まだ記憶が鮮明なうちに文章にしておきたい。


明けない夜はない

祖父が永眠した。
まあまあ突然だった深夜の訃報におじいちゃんっ子の自分は泣いた。

比較的ピンピンころりだったので凄いな、長い間お疲れさまでしたという思いと、ありがとうの気持ちと、やっぱり寂しい思いと。

感情がぐちゃぐちゃだった。

喋って落ち着いては、泣いてを繰り返し、いざ横になっても胸がきゅっとなって眠れないな〜と思いながら、最終的には泣き疲れて2時間は寝た。

朝5時。
既に外は明るく、カーテンの隙間から光が差していた。寝室は明るかった。

もう布団にはいられず、サッと準備して、職場に向かった。6時ちょっと過ぎに着いた。忌引き休暇をいただくために、1時間ちょっと申し送り業務をして、8時前には職場を出た。

空は青々しくてあまりにもいい天気だった。とても暖かい、寧ろ4月下旬にしては暑いぐらいの晴天で、仕事モードがoffになった瞬間、いい朝だなと思って自然に涙が溢れた。

祖父のすごいところ 

仕事モードが完全offになった運転中の私の頭の中は祖父のことでいっぱいだった。

祖父のすごいところはいっぱいある。なんか小学生のような言い方しかできない。

私がOTになるまで生きるといい、達成したこと。
プラス5年は生きましたね。

大好きな阪神の38年ぶりの日本一を見届けられたこと。優勝してから祖父の部屋は阪神のタオルやカレンダーでいっぱいだった。このグッズたちを手配した姉に感謝。入院してから制限のため私は面会できなかったが、父に「カレンダーと阪神のタオルは持っていってね」と頼んだ。最期、病院でうつらうつらしている時でも阪神のタオルには反応したそうだ。本当によかった。

しっかり考えていること。考えを曲げないところ。
これは3年前のエピソード(以下のnote参照)に顕著に現れている。ちなみに先日祖父に会った時は、以前プレゼントしたメロンパンの感想を述べ、「また買ってこいよ」と言っていた。どこまでもしっかりしている。

自分の生活を自分でコントロールしていたこと。
90超えていたけど、調子のいい時は自ら家庭用エルゴメーター漕いでいた様子。祖父は頑固で口数が多い方ではないが、訪問看護やリハビリの人ともいろいろ話すのがなんだかんだ楽しかったよう。そしてリクライニングチェアに座って野球、ゴルフ、麻雀をいつもテレビで観ていた。好きなものがある、人に思いや考えを伝えられるってやっぱり生きる力になるんだなと思った。

とても孫想いだったこと。社会人になってから月1回くらいの頻度で会いに行っていたけど、いつも私の体調を気にかけてくれた。どんな時でも「体調はええか」と聞かれた。そして私が病院に就職したことを周りにいっぱい自慢したそうだ。

あたたかさと笑顔

亡くなる約1週間前、祖父は自宅の部屋で転倒していた。祖母だけでは床から起き上がる介助ができず、もともと約10分後に来る予定だった私を待っていた。

意識ははっきりとしていたし、呼吸も落ち着いていた。ゆっくり起座位をとって、前方にベット脇にあったタッチアップの手すりをセッティングして両手で掴んでもらい、介助して少しだけ離臀、椅子を差し込み椅子座位へ。そこから落ち着いたら手すりにつかまって立位へ。幸いにも立位をとってしまえば手すり伝ってベッドまで歩けた。

ベッドで横になって早速野球を観ていた。その日は阪神が勝った瞬間を祖父のベッドの脇に座って一緒に迎えた。言葉には出さないが凄く笑顔だった。

こういう時に落ち着いて介助できたから、リハビリテーションの仕事をしていて良かったなぁと思った。数年前の夜中も祖父が高熱出した時、明らかに呼吸数多く、酸素化も低くて、動けなかったから救急車呼んで病院まで付き添った。なんだかんだ、普段やってること役に立ったよ。

そしてこれが最後になるとは思っていなかったけど、祖父にとって大切な野球を観る時間を一緒に過ごせて自分は幸せだったなと思う。

祖父の身体に触れてあたたかみを感じ、祖父の笑顔が見れて本当に良かった。


写真は2年前祖父母と一緒に見た桜。
一緒に見た桜と命日の朝は忘れないように。












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