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フレンチバイトの話

オンラインでの大学生活にも慣れてきた1年生の秋。私はグルメ本で見て以来、憧れてきたフレンチレストランの門を叩いた。初めてのバイトにしては敷居が高すぎたが、当時の私はいい意味で常識にとらわれない人間だったのだ。まずはホールの隅に立ち、見て学ぶことから。風雅な庭園に真っ白なテーブルクロス。夜は暖炉とろうそくで一段とムーディーになる。落ち着いた雰囲気で紳士淑女にワインやらチーズやらをサーブするギャルソン。数万円のコース料理に気後れしながらも、ただただ美しい皿の上の芸術に見惚れていた。

しかし、見るのとやるのとではわけが違う。クロティーユ、ミルゼイユ、ブルギニョンソース……呪文に近いフランス語の数々をひたすらググって予習・復習する。百均で調達した大皿にこれまた百均で調達した箸置きを載せ、大家さんの不思議そうな視線を感じつつ、アパートの階段でひたすら皿3枚持ちの練習もした。

エレガントの対極に生きる私がまずやらかしたのは椅子引きである。お客様の動線を読んでさりげなく先回りし、絶妙なタイミングで椅子を引く、これがなかなか難しい。お化粧直しから戻ってきたマダムをさりげなく誘導し……た、つもりだった。うまく動けたと、少々どや顔で目線を落とした先にあったのはブランド物のバック。振り返るとマダムは迷うことなく隣の席へ。いぶかしむお客様にやんわりと微笑み、優雅に退散した。内心では必死に動揺を隠しながら。たかが椅子引き、されど椅子引きーー。

私の失態はとどまるところを知らない。聖なる夜にVIPなおじさまの高級シャンパンを倒してしまったり、新婚夫婦に記念写真を頼まれたものの、静謐な空間にiPhoneの場違いな連写音を響かせてしまったり。伝統あるこのレストランで数々の伝説を作ったと自負している。働いた期間は、ほんの2か月。コロナ禍を理由に解雇されてしまったが、真相は知る由もない。このレストランが多くの人に愛され、今も健在であることが唯一の救いだ。

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