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入沢康夫様の詩  初版

僕は詩が好きで、たまに詩集読むことがあります。
今まで、読んできた詩の中で1番考えさせられて記憶に残っている作品があります。この作品では、入沢康夫特有の「逆説」が成り立っているように思います。
最初に読んだときは、書いてあることをそのまま読むだけで、どう受け取ったらいいのか全くわかりませんでした。

乗組員はだれあってこの船の全景を知らぬ

 船外の風景を見たものもいない

乗組員は「全景」を知らないのに、それが、船であることはどうやってわかったのでしょうか。作者である入沢康夫以外に、木の船であると断定できる人間はいません。とても奇妙なことのように思いますが、文学では常識的なことなのではないかと思います。
文学の世界は実在するものではなく、言葉の中での世界でしかないので、文学では、書かれているものが実在しなくても成立するのだと思います。むしろ、実在しないからこそ、成立するのかもしれません。実在しないことによって、文学の成立が簡単になるのではないでしょうか。その「全景」を誰も知らないからこそ、作者がどのような「全景」を描いても、それを誰も否定することはできません。だから、読み手は書き手の書いたことをそのまま鵜呑みにするほかありません。誰も「木の船」について知らないからこそ、入沢康夫は自由に「全景」を作り出すことができるのだと思います。

僕はこの詩を通して入沢さんが、「存在しないこと」を目指しているように感じました。

その部屋にはドアも揚げ蓋もないのだ。かつて一人の乗組員が辛うじて発見した小さな節穴からこの室をのぞいた。すると意外なことに、そこに、船室の内部に、海があった。影深い峡湾、そこを黄色い幕
を張りめぐらした屋形船が物凄まじい勢いで通って行くのを見て、鳥肌立つ思いをした時、節穴は内部からぴったりとふさがれてしまった。以来、この室の内部をうかがい得たものはいない。

 僕は最初、ここで入沢康夫がかいた海を、節穴を覗いた船員が想像して描いた海、実在しない海だと捉え、実在するのは節穴をのぞいた船員と、その想像力だけであると考えました。
しかし、何度も読み直しているうちに、この考えは間違っているのではないかと考えるようになりました。その海が船員が想像したもので実在はしないという考えはその船員の存在を前提としています。そもそも、この入沢康夫の描いた船でさえ実在しないのだから、船員も実在しません。でも、だからこそ海は実在しているのかもしれません。実在していない船と実在していない船員がかけ合わさって、その瞬間だけは言葉の中だけで、海は実在しているように思いました。
また、ここでは海が船の中に存在していて、本来の海と船との関係が逆転しています。これも「全景」を知るものがいないからこその虚構なんだと思います。
何度も読んで読み直すたびに、考えなおされる作品です。

間違いだらけだと思いますが鎮座doteinessに迫られたので、とりあえず初版ということにして投稿させていただきます。
是非皆さんご指摘お願いします。

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