無駄な時間は一つもなかった

費やした時間と、それで得られた成果によって、その時間が無駄か、無駄じゃなかったかを判断している。

例えば、大学生まで続けてきた野球。

小学一年生から始めて何度も辞めそうになりながら、下手なりに続けてきた。費やした時間で言えば、今のところ自分の人生の中で一番だと思う。

でも、小学生の頃に夢を見ていたプロ野球選手にはなれなかった。才能がなかったとか、努力不足とかそういう話は今はいい。

じゃあ、プロになれなかったから今までの野球に費やした時間は無駄だったのだろうか。費やした時間で得られた成果はなんだったのだろうか。

レギュラーにはなれたけど、勝ち進むことはできなかった。いわゆる県大会的なものにも一度も出場することができなかった。

それでも、辞めたいっていう気持ちがあったりしたのに、大学野球の引退が迫ってきている中で、「まだ野球を続けたい。」と思えたのは、高校生の頃の自分にはとても考えられないくらいに変わった、成長できたのかな、と思う。

高校の頃に、「これ以上野球を嫌いになりたくないので、部活を辞めたいです。」と、泣きながら監督に相談し、結局続けることにした野球が、まだ続けたいと思えるくらいに好きになれたのは、とてもとても大きな成果だと言えると、思う。

野球を通して、自分は大きな自信を手に入れることができた。


これはめちゃめちゃわかりやすい。


こういうわかりやすい経験に対して、自分はかなり甘めな方というか、ここまで時間を費やしてきたのだから何かを得て当然だ、という思いもある。

じゃあ、それ以外の経験に対してはどうだろう。

例えば、ゲーム。

ゲームに関しては、どうしても無駄な時間だと思ってしまいがちだ。

記憶には残っているけど、楽しかった、以外の感想が何一つ出て来ない。でも、その時間全てが無駄だと言い切ってしまうのもなんだか違うような気がしている。

意識高い系の人の発信を見ても、「ゲームは時間の無駄!自己投資に時間を費やそう!」とか書いてたりするけど、それはその人にとっては無駄だっただけで、ゲーム自体を悪と見なすのはおかしくないか?と、ゲーム擁護派に回ってしまう。

ゲームは自分にとって必要のない時間だった→ゲームは悪!

じゃなくて

ゲームに費やしていた時間より、自己投資に時間を費やす方が楽しい
→今の自分にゲームは必要ない!

ってだけの話で、今の自分にゲームが必要ないから、ゲームは悪だ!とはならない。

でも、今まで自分がゲームをやってきた事で得られた成果ってのはたぶんゼロで、楽しかった時間っていう思い出しかないんだよな。

楽しかった時間が成果です!とも言えないし、でも成果がないから無駄な時間でした!とも言えない。


最近、無駄か、無駄じゃなかったか、の判断がかなり鈍っていて、丁度中間の着地点があるような気がしてならない。

無駄だった…     中間     無駄じゃない

この中間にある出来事や経験が多すぎて、今まで切り捨ててきたものに対してもう少し向き合っていればよかったな、と思うようにもなってきた。

自分と向き合う時間がかなり長い。

俺は今、思春期なのか?

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