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奈良と福岡は相似形 ~地形地図から邪馬台国を探す~

新しい都を作るとき、その都が栄えるように、過去に栄えた都の構造を模して、相似形で作られることが多いようです。江戸が作られた時も京都がモデルとなりました。鬼門方向にある上野山が比叡山に見立てられ、延暦寺に模して寛永寺が立てられました。不忍の池は琵琶湖。真ん中には竹生島を模して弁財天が安置されました。

福岡県の地図を見ていると、その形が、左右反転はしますが、大阪湾と奈良盆地の構造に酷似していることに気付きました。もっとも、筑紫の野に邪馬台国があったとして、大和政権の最初の都と言われる纏向遺跡はその後ですから、順序が逆で、奈良が福岡に倣ったというのが正解ですが。

古田武彦の説によれば、天孫降臨で瓊瓊杵尊が降り立ったのは、一般に言われる宮崎県の高千穂ではなく、福岡県の高千穂だとされます。『古事記』には、「筑紫の日向の襲の高千穂峰」と天孫降臨の地を指し示しています。古田は、宮崎を指す日向(ひゅうが)ではなく、福岡県糸島市の日向(ひなた)に上陸したとしました。確かに、「筑紫の日向」と言っているのですから、朝鮮半島の方角から見て九州の裏側に回って宮崎が出てくる方が唐突に感じます。古田は、その地に政権ができ、7世紀まで続いたという九州王朝説を唱えました。そして、神武天皇はその政権の傍流にあたるとしました。

宝賀寿男も前半はほぼ古田の説と同じですが、九州政権説は採らず、瓊瓊杵尊が降臨してできた政権こそが邪馬台国であるとしました。やはり、神武が邪馬台国政権の傍流であるというもの同意見で、神武東征は2世紀の初め頃としました。

つまり、私がやりたいのはこういうことです。大阪湾と奈良盆地、そして、纏向遺跡の位置を確かめ、それを福岡の地形にあてはめたら、自ずと邪馬台国の位置は特定されるのではないかということです。


福岡・佐賀を中心とする筑紫平野(邪馬台国の推定地)



大阪湾から奈良盆地を含む近畿の反転地図

上が福岡から佐賀にかけての筑紫平野、下が反転させた大阪湾から奈良盆地の地図になります。

このままだと分かりにくいので、線や図形を入れて比較してみます。山に挟まれた狭い通路の奥に山を背にして都がおかれる構図が見えるでしょうか?そもそも天孫族と呼ばれる天皇家の祖先が朝鮮半島経由で日本に上陸したとき、基地である都城は最も攻め込まれにくいところに定めたはずです。纏向の場合はその傾向がよく見て取れます。できたばかりの大和政権にとって、仮想敵国は、おそらく、邪馬台国です。そうでなくても、大阪湾に上陸してくる敵を迎え撃つことを想定すると、生駒山系は天然の要害となります。そして、そこの最も奥まったところの、背後も敵にさらす心配の場所が纏向の地なのです。大和政権が邪馬台国からの派生であり、邪馬台国を模して都を作ったという前提になりますが、その見立てが正しいなら、邪馬台国の都城跡は、福岡県うきは市か吉井町あたりが有力な候補地となります。


福岡・佐賀を中心とする筑紫平野(邪馬台国の推定地)


大阪湾から奈良盆地を含む近畿の反転地図(纏向遺跡)

オレンジの星印を入れましたが、地図の左下に九州は有明海が、近畿は琵琶湖があるのが面白いと思いませんか?博多湾側が筑前、有明海川が筑後です。近畿も琵琶湖方面が山城(山背)ですから、きちんと前後関係も揃っています。

ただこれだけでは物足りず、邪馬台国の都城跡をもっと詳細に知れないかと思いました。一つは都城の向きです。もう一つは、「大和は国のまほろば」と言われる、その「大和」と「まほろば」にヒントはないかと思いました。

まず、都城の向きですが、これは風水では座山や座向という言葉が使われます。纏向は三輪山を座山として、東西の軸から5度南に向いて、二上山に正対する形をとっています。都が東を背に西に向いているとても特殊な形をしています。大阪湾からの狭い通路が二上山のふもとを通っているわけですから、大阪湾に正対していると言ってもいいかもしれません。
となってくると、邪馬台国の都城は博多湾の方角、つまり北西を向いて、南東に山を背負ってなければなりません。相似形を取るとしたらこれば絶対条件です。となってくると、邪馬台国の有力推定地とされる久留米市は除外されます。後に背負う山がないからです。同じく有力候補の朝倉市もかなり怪しくなってきます。博多湾から見て平野のドンツキではないのと、もし山を背負うなら南西を向くことになってしまいます。


久留米市・朝倉市における仮定

倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし

『古事記』

というのは、『古事記』で倭建命が詠んだ歌とされます。私は、まず、この「やまと」という言葉が奈良のみを指すのではなく、一般名詞ではないかと思ったのです。というもの、福岡や佐賀にも、山門と書くなどして、いくつかの「やまと」が存在するからです。「やまと」の「やま」はそのまま「山」を指すとして、やまと言葉で「と」は平地をさします。つまり、「山の平地」です。台形の山でなければ山の平地と言ったら山のふもとになります。確かに纏向は三輪山のふもとにあります。

「まほろば」というのは、「素晴らしい」という意味の「まほろ」と場所を表す「ば」がくっつき、「素晴らしい場所」という意味であると、Wikipediaはじめ、ほとんどの辞書に書いてあります。古田武彦は「まほろば」の原型は「まへらま」だと言います。「ま」というのが接頭語で美称であり、「へらま」とは鳥のわきの下の毛を指すと言います。「素晴らしい」という形容詞ではなく、いきなり場所関係がでてきました。脇ですから中心ではありません。確かに纏向は奈良盆地の隅っこに位置します。

纏向の都は、奈良盆地の端にある。重なりあった青い垣根の山々、それらに囲まれた都は、とても美しい

(筆者訳)

こちらの方が通りが良いように思います。都城は平野の端にあって、山裾にある。これで一段階スコープが狭まりました。古田は、「へらま」がなぜ「ほろば」になったか、写本の年代をその根拠としています。『日本書紀』では、この歌は倭建命ではなく、景行天皇が詠んだことになっています。『日本書紀』の最もメジャーな写本である伊勢本は、「まほろば」となっている、しかし、それよりも古い熱田本は、「まへらま」となっているのだそうです。しかし、「まほろば」と書き換えた根拠は無視できません。

「ま」は接頭語の美称であるとして、ここでは一旦わきに置いて、「ほ」はやまと言葉で突起物のことを言います。「ろ」は岩や岩盤です。突起上の岩というと磐座です。「ま」は接頭語としましたが、大地や鉱物という意味を持ちます。磐座のある場所、ヒントは磐座のある山のふもとです。


巻向~三輪山地域を「磐座」で検索

はー、でました。三輪山は磐座だらけです。考えてみれば、神武天皇は「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)」といって、まさに磐座信仰そのものの名前をお持ちです。ということは、磐座がある山のふもとを探せば、邪馬台国の都城にたどり着けるかもしれません。


筑紫平野の東隅を「磐座」で検索

うきは市あたりにも「岩」があったのでそのあたりを拡大して、「遺跡」で検索してみました。ただ、はてさて・・・、どこを掘ってもなんでも出てきそうな場所ですね。(今回は以上で終了!お付き合いいただきありがとうございました)


うきは市あたりの拡大地図。「遺跡」で検索

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