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マネジメントモデルの世界観とパラダイムシフト

書籍『ヒューマノクラシー』の章立てに沿って、官僚主義的なエピソードや、本の記載内容の背景などを紹介しています。

第6章 手法よりも原則を追求する P.188~193
世界観が大切なのである。それは非常に大切だ。だが、人は概して、根本的な思想よりも、どう実施するかを考えるのにずっと多くの時間を使いがちだ。私たちが行き詰っているのは、それが原因だ。
(中略)
同様に、ニールス・ボーアやヴェルナー・ハイゼンベルクらの物理学者は、原子より小さい世界を探求するために、ニュートン物理学という慣れ親しんだ世界を捨てざるを得なかった。そして、まったく新しい基本原則を導きだした。たとえば、波動と粒子の二重性、重ね合わせの原理、不確定性原理、非局所相関といったものだ。そうして生まれたのが量子力学だった。
(中略)
ヒューマノクラシーの実現を目指すなら、プロセスに注目するだけでは不十分だ。(中略)加えて、1つのプロセスは大きな全体の一部でしかない。斬新なプロセス1つを従来型のマネジメント・モデルに当てはめても、たいていは効果がない。
(中略)
厳密に組み合わさったシステムである官僚主義はコンプライアンス、規律、予測のしやすさを実現する。まさにそのために設計されたのであり、ソーセージを製造する機械がソーセージしか製造しないのと同じだ。だから、より脂肪の多いソーセージや、菜食主義者向けのソーセージを作ったり、1時間あたりの生産量を増やしたりすることはできるかもしれないが、最初の設計図に立ち戻らないかぎり、ソーセージ以外のものを作ることができない。

一番はじめに「世界観」という言葉が出てきますが、これがとても難しい言葉なのです。何が難しいかというと、実際に、その言葉だけでは、人はどんなことでも想像できてしまうからです。個人に紐付いた価値観、組織でいうパーパス、組織でいうシェアードバリューなど、組織において、「あの人と私は、違う世界で生きている」と言った時の「世界」のほとんどは、まず、これらのもののどれかを指すはずです。しかし、どういう意味で「世界」と言っているのか、これだけでも、Aさんが意味する「世界」と、Bさんが意味する「世界」とは、まったく異なる可能性が高いのです。
 
そのあとに続く、ボーアやハイゼンベルクの例えを見て、私は、ニュートン力学の世界と量子力学の世界ほどの違いを指して、筆者は「世界観」と言っているのだと分かりました。つまり、ここでいう「世界観」とは、「パラダイム」のことを言っているように思いました。
 
筆者は旧パラダイムの象徴として、「ソーセージ」の製造を例えに用いています。「ソーセージを製造する機械がソーセージしか製造しないのと同じだ」というくらい、設計されたものに対して、設計通り間違いのない製品が出来上がる様を説明しています。目標に対してゴールがあるというのは官僚主義のパラダイムです。いま、流行りの「エフェクチュエーション」と「コーゼーション」で説明すると、分かりやすいと思います。


「ソーセージ」の例がまさに「コーゼーション」のパラダイムに当てはまります。
 
だとしたら、「コーゼーション」の対極にある「エフェクチュエーション」は、大前提として、「ヒューマノクラシー」と「世界観」を共有するものなのでしょうか?これに関しては、さらなる探求が必要だと思います。
 
いずれにしても、「官僚主義」や「コーゼーション」のような枠組みは一つの「世界観」ということができます。そして、「ヒューマノクラシー」や「エフェクチュエーション」も同様です。ニュートン力学的世界観が、直線的で単元的なのに対して、「ヒューマノクラシー」や「エフェクチュエーション」は、きっと、非直線的で、もっと多元的なのでしょう。ソーセージの製造過程があまりに単一的で、ゴールという目的に関係ないものを排除するのに対して、「ヒューマノクラシー」は、もっと「多様」で、「包括的」で、あらゆる「可能性」に満ちているはずです。
 
しかし、ここで問題が発生します。「官僚主義」も一つの世界観、「ヒューマノクラシー」も一つの世界観といったら、AかBかだけの違いになってしまわないでしょうか?つまり、「多元的」で「多様性」のある「ヒューマノクラシー」も1個の単一的な価値観となってしまわないかという意味です。ややこしいですが、この「世界観」だと、多様でないものはすべて排除の対象になってしまいます。AかBかという、「世界観」の単純な比較だと、自己矛盾を起こしてしまうということです。
 
ここで「銀河系」を想像していただきたいと思います。銀河を銀河系の外から眺めると、そこに多くの銀河が存在していることが分かります。これを観測者の視点といいます。一つの銀河が一つの「世界観」だとすると、個別の「世界観」が複数存在しているように見えるはずです。しかし、私たちは、宇宙をその角度から見て、感じることは不可能であって、実際には、天の川銀河の一つの星から、自分の所属する銀河の星々を眺めています。すると、銀河は1個の単体ではなく、たくさんの星の集まりだということが認知できます。これを内部観測の視点と呼びます。つまり、私たちは、常に世界の内側にいて、内側から世界を見ています。世界の外から、Aという世界と、Bという世界を見ているわけではありません。


銀河を銀河系の外から眺める


一つの星から、自分の所属する銀河の星々を眺める

だとしたら、「コーゼーション」と「エフェクチュエーション」の比較自体、ナンセンスになってきます。両方を外から見れるのは観察者の想像だけで、行為者は常にそれらのどちらかの中にしか存在し得ません。「官僚主義」と「ヒューマノクラシー」の比較も同様です。本を読んで、外部の世界から評論家の立場で議論することは可能ですが、これでは何も起こりません。AかBかという外部から見た世界は、常に静止画の中にとどまり、リアリティを持たないからです。行為者となって、その世界を動かしていくことを「自己言及」と言いますが、それでようやく、世界の持つ生命観に触れることができるというものです。
 
「世界観」はいっぱいあるかもしれませんが、自分が存在している世界は1つです。そこでベストを尽くしていきましょう、ということですね。理想の「世界」に近づけるために。

最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。