「イベントの効用」について

 一昨日、友人で「引きこもり」を支援する活動をしている人と飲んだ。
 彼のワークショップに一度参加したことがある。その時に上記の「イベントの効用」について話した。
 イーズカとしては、引きこもりがちな人への体験療法として、イベントもオモシロいよ、というような話をした。
 その時の感想を友人から訊かれた。イーズカとしては、「認識の違いがあると思った」と答えた。
 参加者の多くからは前向きな反応が多く、引きこもりの人間にも参加しやすいイベントを開催してほしい、との声も多かった。
 音楽イベントなどを「客として捉えた」話が全部である。確かに、引きこもりに限らず「イベントには、客として参加する」ことが殆どであろう。
 しかしイーズカなど「主催者としてやる」ことしか考えていない。
 イベントが業務だったせいもあるが、如何にして募集して、どのように準備するか、何で楽しませるか、が全てとなる。
 個人的にも、万来社のパーティを毎回100人くらい集めて、年に3回くらいはやっていた。
 屋上でバーベキューなどをしていたので、毎回警察と消防には届けを出していた。火を使うとそれだけで通報されることがあるし、「騒がしい」と警察に苦情が入ることもある。
 パーティの最中に踏み込まれると、場がシラケてしまう。別に届けなどしなくても可能だが、必ずやっていた。もう常連になってしまい、「イーズカさん、もう直接来なくても、FAXで良いですよ」と言われるようになった。
 イベントは客として行くよりも、主催者になった方がオモシロイのだ。
 客としての意見はツマラナイものが多い。所詮は客としての意識なので素人の域を出ない。受け身の発想の人間には、本当に「客を楽しませる」アイデアなど皆無である。
 友人同士の「飲み会」でも、幹事をやったことのないヤツの段取りはヒドイ。客としても平気でドタキャンする。参加者が一人減っただけで、どれだけの損害が発生するかという配慮が無い。
 要するに「人間としてバカ」である。
 イベントを主催者側で関わることがオモシロイんだよ、と提案したのだが、誰ひとりそんな意識で聞いていなかった。
 これではイベントなどやっても何の意味も無い。客としてイベントを消化する人間、カネを払うだけの人間には何の成長も、発見も無い。
 これは「引きこもり」に限った話ではなく、人生に対する姿勢が関わってくる。
 「受け身」の人生は貧しい。「情けはヒトの為ならず」との言葉があるように、「情け」は自分の為にこそ意味がある。
 日本のロックバンドの草分け『はっぴいえんど』が歌っている。「豊かさってのは、何を持ってるかじゃない。何を欲しがってるかだぜ」と。
 「受け身」の人間は、「何を持ってるか」でしか、豊かさが計れない。
 「欲しがる」とは「作り出す」ことである。イマジネーション無き人間はビンボーである。
 現状の中に沈み、そこから抜け出すことができない。
 イベントに限らず、人生とは主体性のことである。自分の人生を、「与えられたモノ」だけで満足したら、誰の目から見てもツマラナイものにしかならない。
 イーズカは「大人として遊ぼうぜ」と常に思っている。

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