「自慢話」について

 イーズカは「話好き」である。飲み屋にも、人に遭って、話す為に行っている。
 もうブログ時代から20年以上も、早朝に「作文」している。「話す」ことを前提に書いている。どの順番で話すとオモシロイかを試しながらストーリーを組み上げる。

 毎朝、台本を書き、構成・演出を試しながら話すことになる。実際に生身の人間に話して、その反応を見て順番もエピソードも入れ替える。
 この過程で、小さなウソは山ほどつく。無かったことを「あったかのように」語り、実際にあった事を省略する。

 毎日、映画か芝居の台本を書き、実際に舞台に掛けてみて細かく台本を書き直す、舞台監督と同じ作業をしている。

 イーズカには役者はイーズカ本人しか居ないので、話すリズムだけを気にしている。話のスピードにメリハリを点けないと、聴く方が退屈するし、盛り上がりの効果が薄れる。

 むかしから、イーズカ作文は「自慢話ばかりだ」と言われていた。
 指摘するだけ愚かな話である。イーズカは「人間の話は、すべて自慢話でしかない」と考えている。

 役者に多い「苦労話」と「ビンボー話」。これは究極の「自慢話」である。
 ドタバタと創意工夫に満ちた笑い話。これらを乗り越えて現在も生き残っている、という成功譚である。
ビンボーのやり過ごし方にインテリジェンスが垣間見える。

 ただ嘆いているヤツは、アタマが悪い。「それはオマエの責任であり、変えたいならオマエ自身が変わるか、社会を覆す運動でも起こせ」としかならない。

 学生時代、良く使った「決めセリフ」がある。「論理で言って分からないなら、物理的に粉砕するしかないな」と言い放ち、相手が構える前に殴り倒す。
 相手は「まだ、その段階ではない」と思っているので、簡単にパンチを食らってしまう。先手必勝のケンカ術である。

 こういった意識はセリフではなく、舞台回しで重要になる。道化というか狂言回しの役者を配して、無理なく場面転換と、舞台進行のスピードアップを図る。
 観客も、その方が心地よい。

 話を元に戻す。人間は「自慢話」をするためにシャベッテいる。歴史上のエピソード、先人の逸話、こぼれ話、都市伝説、どれもこれも「見つけ出したワタシはエライ」という話である。
 その場にいない人間を「こき下ろす」のも、「ワタシの優位性」を語る自慢である。

 イーズカは他人の悪口が大好きだ。「居ない人の悪口は卑怯だ」とのたまうバカがいる。人間は卑怯だからオモシロい。
 道徳の教科書に載っているような話は、誰もが小馬鹿にしている。当の道徳教師ですら嘲笑っているのである。

 しかし、このような正義感の人間をオチョクルのがまたサイコーである。本人は悪気無く信じているので、イジイジと反証ネタを振っておき、本人が自己否定せざるを得ないところに追い込む。

 これを居合わせた数人が「阿吽の呼吸」で進めるのが、理想型である。そんな夜は酒がホントに美味い。

 ある意味、台本チェックをするために飲み屋に行っている。必ず現実からの修正が出るので、こまめに直す。

 毎朝、毎晩、こんな事をやっているので、文章は洗練され、話の進行はスムーズかつ大胆なサプライズを繰り広げていく。

 人間、恋愛ネタと、苦労と、不幸には事欠かないので、台本ネタに困ることは無い。どんなに悲惨なテーマも、自慢話の体裁を取らざるを得ないのである。

 イーズカ作文は、戯作者のノリである。


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