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第八十四話 ヴァン・アレンアサシン


私が子どもの頃、年代で言えば一九六〇年代、地球を取り巻くヴァン・アレン帯、世界の共通言語としての期待を集めていたエスペラント語、スコットランドのネス湖に棲むネッシー、これらが少年雑誌の科学特集の御三家だった。さしずめ現在の待ったなしの地球の温暖化、これからの社会を変える人工知能、あらゆるものを飲み込んでしまうブラックホールのように、飽きもせずに取り上げられるテーマだった。そのなかでもヴァン・アレン帯は、今ではすっかり話題に上らなくなってしまった。
「そもそも、現在、ヴァン・アレン帯などと云って判る人が果たしてどれほどいるのだろうか」
ヴァン・アレン帯は地球を360度、ドーナッツ状に取り巻いていて、内帯と外帯との二層構造になっている。赤道付近が最も層が厚く、極軸付近は層が極めて薄い。内帯は赤道上高度2,000~5,000kmに位置する比較的小さな帯で、陽子が多い。外帯は10,000~20,000kmに位置する大きな帯で、電子が多い太陽風や宇宙線からの粒子が地球の磁場に捕らわれて形成される。
電子は太陽が起源、陽子は宇宙線が起源とされている。両者は地磁気の磁力線沿いに南北に運動しており、北極や南極では磁力線の出入り口であるため粒子も大気中に入ってきて、これが大気と相互作用を引き起こすことによってオーロラが発生する。今ではすっかり見なくなってしまったブラウン管と同じ原理だ。オーロラはヴァン・アレン帯の粒子が原因であるため、太陽活動が盛んなときは極地方以外でも観測されることがある。北海道で観測された記録も残っている。地球以外にも磁場を持つ惑星である木星、土星でヴァン・アレン帯に近い存在が確認されている。
過去には、宇宙船でヴァン・アレン帯を通過すると人体に悪影響があり、危険だとされていたが、今では通過時間がわずかであり、宇宙船、宇宙服による遮蔽や防護が可能なことから、ほとんど問題はないとされている。
この判らなさに加えて恐ろしさに依ってヴァン・アレン帯は少年たちの心をしっかりと掴んでいた。少なくとも私は捕捉されてしまっていた。
「ところでこのヴァン・アレン帯、一体どうなったのだろう」
まさか「もうなくなりました」とは言わないだろう。しかし、あの頃とは比べようもないほどに宇宙開発のロケットは数多く飛ばされている。
「たまに話題に上るくらいはあってもよさそうなものだが・・・」
「ひょっとしたらヴァン・アレン帯の話題が出ることで都合の悪くなる勢力が意図して表舞台から抹殺してしまったのかも・・・」
その線なら、何となく首肯できるのだが。                   
「嗚呼、あの頃の子どもたちを宇宙の入り口にまで連れていってくれたヴァン・アレン帯よ、いま何処!?」
そこで私は「夢よ再び」と云うことで財団法人「ヴァン・アレン帯復活協議会」を密かに設立することにした。早速、行政書士に依頼して定款を作成し、認証を受けることにした。行政書士から登記手数料の詳細を訊き、その工面に一週間近く奔走した。さらに、定款の定めに従うと設立時に評議員、理事、監事を選任しなくてはならない。渋る女房や親戚、学生時代の友人に事情を説明して名前を貸してもらうことにした。私は法人の代表者として法務局に設立の登記を申請しに行った。登記書類が法務局に受理されると、通知とともに申請書類の控えが郵送されてきた。そこには一般財団法人「ヴァン・アレン帯復活協議会」代表理事として私の名前が記載されている。いよいよ「ヴァン・アレン帯復活協議会」が稼働する運びとなった。
すると私の周りで妙な事が起こるようになってきた。
ヴァン・アレン帯復活の話をどこで聞きつけたのか、この活動を懼れる組織からなのか、様々な妨害を受けるようになった。最初に妨害されていると気づいたのは、私の家の電話が盗聴されている証拠を掴んだからだ。その証拠はひょんなことから明るみにでた。
暫くぶりで会う友だちと家の近くの喫茶店で待ち合わせをしていた。その友人は電車の遅延で到着まで一時間近くかかると連絡があった。三十分ほど待ったときに小用を催してトイレに行こうとした。まったく私の不注意だったのだが、立ち上がるときにコーヒーをテーブルの上にこぼしてしまった。用を済ませてテーブルに戻ると、意外に早く友人が来ていた。他愛無い話で小一時間過ごした後、家に戻ろうとした。すると、近所の人々が私の顔を見て忍び笑いをするのだ。多分、先程の喫茶店での失態を漏れ聞いているのだろう。誰か私の一挙手一投足を言いふらしている者がいるようだ。
半年が過ぎようとした頃だった。
久し振りに友人に会うために外出した。何となく誰かに尾行されているのではないか、と不安が募ってきた。確たる証拠はないのだが、雑踏を抜け出し、人通りの少ない道を歩いていると、漠然とした感覚だが後をつけられているような気がしてならない。最初は気のせいかと思ったのだが、同じような背格好のハーフコートの男がつかず離れず、私を追尾しているようなのだ。
それが確信に変わったのは、デパートに友人への手土産を買いに入り、エスカレーターに乗っているときのことだった。買い物を済ませ、上の階に行こうとエスカレーターに乗り、そろそろ着こうかという頃に振り返ってみた。すると、例のハーフコートの男が今まさにエスカレーターに乗ろうとしていた。
「誰かにつけられている!」
しかし、一体誰が、この私を尾行などするのだろうか。
デパートを出て、私鉄駅の路地裏を地下鉄の駅に向かって歩き始めた。
近道をしようと短い路地に入ったときだった。
恰幅の好い男がこちらに向かってやってくる。路地の三分の一近くまできていた私は、やり過ごそうとしてふと振り返った。すると、挟撃するように、後ろからでっぷりと太った男が足早にやってくる。
次第に二人との距離が縮まる。私は抜き差しならぬ状況に陥った。
「このままではやられる」と思った。
二人とも、腕力ではとてもかないそうにない。かといって逃げ道もない。
「万事休す!」だ。
私は立ち止った。
しかし、男たちとの距離はみるみるうちに縮まってくる。
街を疾走する風も、大通りに直角に走るこの路地には吹き込んでこない。外気の寒さとは裏腹に、じわりと脇に汗が滲んできた。
ヴァン・アレン帯復活協議会の活動を始めようとしたつけが回ってきたのか。
活動を懼れる組織からの回し者だろうか。
いずれにせよ、その筋の男たちのようだ。
私の脳裏に後悔の念が浮かんだ。
このまま、まんまと逃げおおせると考えたのが甘かったのか。
しかし、こうなってはもう手遅れだ。
ボコボコにされ、有無も言わさず殺されるのだろうか。
二人の男は、もう少しで、踏み込んで腕を振り上げれば拳が届きそうなところまで来ている。
「いよいよか」
私は観念して周囲を見回した。
すると駐車場と路地との境の塀が何とかよじ登れそうな高さであることに気がついた。火事場の馬鹿力ではないが、切羽詰まったときには思わぬ力が出るものだ。私は男たちが来る寸前のところで塀にしがみついてしゃにむに乗り越え、脱兎の如く駐車場を横切って通りを目指して走った。
車の行き交う音を頼りに小走りに暫く行った。息せき切って路地から大通りに出ると横断歩道が在った。丁度、青の信号が点滅し終わるところだった。
私はとにかくその場を離れようと焦っていた。急いで渡ってしまおうとしたとき、信号待ちしていた黒塗りのセダンが急発進して私に向かってきた。間一髪のところで車をかわし、難を逃れた。危うく轢き殺されそうになったのだ。
寸でのところで車を避けた私の心臓は早鐘のように鳴っていた。冷や汗が脇の下からツーと流れ、背筋がぞくっとした。
轢き殺されるかも知れないと云う恐怖だけではない。あのタイミングで私が出てくるのを何処かで知りながら信号待ちしていた車があったのだ。私の逃走経路も事前に調べ上げて手を打たなければできない仕業だ。それなりの大きな組織が、殺しに手慣れた連中を差し向けているのだろう。
「奴らの仕業に違いない」
私はその刹那、大きな、大きな陰謀の掌中に居ることを悟った。
こうまでして私をヴァン・アレン帯から遠ざけようとするからには、そこに大きな秘密、例えば膨大な利権とか、軍事に関する機密、否、国家の利益が隠されているに違いない。
「兎に角一息吐いて善後策を講じよう」
喫茶店を探した。
さすがに大通り、すぐに世界的にチェーン展開している路面店が見つかった。
息せき切って店に飛び込んだ。午後の早い時間にも拘わらず店内はがらんとしていた。
「若者に人気のチェーンなのに意外だな」
テーブルに着いて落ち着いた所で注文をしようとメニューを見た。するとそこにはあのヴァン・アレン帯の陰謀が形となって現れていた。
「そうか、これだったのか。ドーナツショップのチェーンを展開するために、マイナスイメージを喚起するヴァン・アレン帯が邪魔になったのだな」
この時、積年の疑問が一挙に氷解した。
 

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