見出し画像

第九十六話 抽斗がいっぱい


商社に勤めていた義弟が実家を継ぐために東京から戻ってきた。予ねてからの計画で、蔵をカフェに改築してこの春にオープンするとのことだ。
「女房とも相談して早いうちにと思ってね。義兄さんにも何かと迷惑をかけるかも知れませんが宜しく」
リフォームの設計は済んでいるので、年内には蔵を明け渡さなくてはならない。
暇を見つけて蔵の中を整理していると小さな箱が出てきた。見た目は何の変哲もない無垢の手箱だ。きわめて平凡な箱だが、前後、左右の四面が抽斗になっている細工物の箱だった。
板面に薄っすらと矩形の切れ込みが確認できる。確かに四面夫々に抽斗がついているらしいのだが、どこを押すのか、ずらすのか、引っ張るのか、どこかに手掛かりを見つけないことには開けられない。
「何に使われていたものなのだろう、どんな機能があるのだろう」
抽斗が開けられないので、何とも判断のしようがない。
「どう、開けられた?」
女房はいつもの気楽な調子で訊いてきた。
「駄目、駄目。これ、見た目以上に手強くてね。まだだよ」
私は作業の手を休めるわけにはいかなかったので、素っ気なく応えた。
「私やってみる、貸して」
簡単に開けられるものと踏んで、女房は私の手から手箱をひったくった。
しかし、思いの外難しく、手古摺っている。
「本当だ、駄目ね。すぐに開けられそうなものなのにね」
散々手を尽くして、今度は力づくで開けようとした。しかし箱はうんともすんとも言わない。それに無垢なので、一見華奢に見えるのだが、造りは意外に頑丈だ。
策に窮した女房は、今度は手箱をテーブルの角に打ち付け始めた。
私は慌てて「そんなことしたら壊れちゃうよ。あんまり手荒な真似をするなよ」と不機嫌な声を女房に投げつけた。
「あら、だってどうしても開かないんだもの。ちょっとくらい乱暴に扱ったって壊れやしないわよ。それに壊れて開いたらそれはそれでいいじゃない」と、自分に都合のいい言い訳をした。
暫くいじって手に負えないことが判ると、女房はテーブルの上に手箱を戻して外出してしまった。女子大時代の友人と誘い合わせて映画を観にいってくると言い残して。
「どぉれ」
翌日、私は仕事から帰って来ると食事もそこそこに、手箱を手に取って開けようと試してみた。だが、案の定、何の手掛かりも得られない。つまみもなければ取手もない。無いない尽くしで難儀していた。それからは気の向いた時に手に取ってみる程度で、意固地になって開けようとすることはなかった。
ある日、手箱をいつものように弄っていると、手から滑り落ちた拍子に小さな隙間が現われた。
「へぇ、こうなっているんだ」
叩くなり小突くなり、打撃を与えると最初の手掛かりが現われる仕組みになっているようだ。それも微妙な力の入れ具合で。うっすらと刻まれた切れ込みに沿って繰り返しスライドしていると、何かの拍子に、まったく偶然に一つの面の抽斗が開いた。
全部開けてみると、ただの抽斗だった。
「何だ」
最初のひとつを開けないと次は開けられない仕組みになっている。根気よく一つずつ開けてゆく。判り難いことこの上ない抽斗だ。
四面にそれぞれ抽斗のついた手箱。実用性もあまり感じられないこんな、謂わば酔狂な箱を何故作ったのか。私にはとんと判らない。開けようと悪戦苦闘している姿を想像して楽しんでいるのか。人に時間を費やさせて喜んでいるのか。将又、職人の遊び心か。
開けてみると、すべての内側に螺鈿細工の蒔絵が施されてあった。この蒔絵は開けられた人への御褒美なのか。外から見ると無垢の木箱だが、いざ開けてみると内側は豪奢な装飾が施されていたのだ。
「随分と天邪鬼な奴だ」
ひょっとして、その細工師は細工に凝り過ぎて自分でも開けられなくなったのではなかろうか。そして後世に託そうとしたと云うことだって考えられる。それとも、腕には自信があるが鬱屈した職人が、時空を経て、自ら課した課題に応えられた人間と無言の会話をしたかったのか。
「だとしたらよっぽど屈折した性格の持ち主だな」
そんな取り留めのないことを考えていた。そして、ふと、寂し気で、そのくせ他人にはまったく関心を払わない同僚がいたことを想い出した。優秀なんだが周囲に打ち解けず孤立している、その職人はきっとそんな奴なのだろう。
「そう云えば、奴はこちらから声を掛けても邪険にするばかりだったなあ。深く付き合ってみれば意外に人懐っこいところのある寂しがり屋だったのかも知れない・・・」
昔の職人の設けたハードル、それを跨いだ者だけが開けることのできる愉悦。ふと、意地悪で自尊心の強い細工職人が、箱の向こうから冷たい笑いを送ってきたような気がした。
寂し気に微笑むその箱は、以来、そこが所定の位置であるかのようにテーブルの隅に居場所を得て、いつも鎮座していた。
ある日、テーブルの上に在る筈なのに見当たらなくなった。
「どうしたのだろう」
テーブルの上には一塊の木片が在るだけだ。近寄ってみると、ばらばらになった板が散在していた。力づくで例の箱を壊したようには見えない。
「何だこれは?」
自然に、あたかも木が朽ちるかのように崩壊していた。部材が綺麗に分解されて横たわっていた。
「どうやら無くなっている部材はなさそうだが・・・」
だが、これをまた組み立てるのは至難の技だ。私はそのまま、その部材をすくいあげるようにして段ボール箱に入れ、蔵の二階に戻そうとした。
脳裏にまたあの職人の寂し気な顔が浮かんだ。
「ひょっとしたら、あの箱は己の意志で自壊し、また再び組み立て、抽斗を開けようとする輩を待っているのかも知れない。奴の天邪鬼さを以てすれば・・・」
蔵の扉を開けようとすると、玄関から女房と義弟の話す声が流れてきた。
「姉さん、中はだいぶ片付いたの?」
「駄目よ、あの人ったら何かに憑りつかれたみたいなのよ。変な手箱に気を取られて、一向に進みやしないのよ。あなたからも言ってやってよ」
ひんやりとした蔵の中の空気は、いつものように滞留する時間の裡に寡黙に佇んでいた。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?