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第七十五話 パンのラビリンス


小麦の焦げた特有の香ばしい香りが漂ってくる。流れてくる香りの先を辿ると一軒のパン屋が在った。その店は最近できたばかりの街角の小さなパン屋だが、近郷近在で美味しいと評判の店だった。
店内に若い声が響いた。
「えぇ~、ただいまカンパーニュが焼きあがりました」
カリッとした皮の部分に当たった歯をさらに噛み締めると、歯応えの在る弾力とカンパーニュ特有のほんのりと塩気を含んだ荒削りな小麦の香りが口腔に広がり、鼻へと抜ける。美味しいのはカンパーニュだけではない。どのパンも焼きあがったとたんに完売してしまう。一つひとつのパンに若いパン屋の情熱が込められていた。
主原料の小麦粉は、薫り高い品種を選りすぐり、土に拘り、手塩にかけて育てた小麦から作られている。酵母は小麦の味を芳醇に香り立たせる独自のものを厳選し、バターもジャージー種の濃厚なものを使っている。水もパン作りに適した不純物の少ない湧水を使い、たっぷりと発酵に時間をかけ、生地を寝かせ、この業界でナンバーワンの呼び声の高いメーカーのオーブンを使って丁寧に焼き上げている。火の廻りが早く、均一に熱が伝わるので、パンが命を得たように生き生きと焼きあがるのだ。
美味しいパンは誰でも、豊かな朝食のテーブルに乗せたがる。評判は評判を呼び、そのパン屋は瞬く間にその界隈で随一の人気店となった。
店は繁盛し、作っても、作っても追いつかない状態が続いた。そこで全国から人を集め、生産を拡大した。店でパン作りの奥義を極めた職人たちは、弟子となって全国に散らばっていった。その味は伝承され、それまで地元で細々と営んでいた周囲のパン屋をあっという間に駆逐してしまった。パン屋の勢いはそれだけに止まらなかった。全国チェーンの大手パンメーカーもその余波をまともに受けた。売り上げは日を追うごとに落ち、遂にすべてのパンメーカーが倒産してしまった。こうなるとパン屋の独壇場である。全国津々浦々にこのパン屋の暖簾がはためいた。
これに恐怖を覚えたのが時の政府だった。
首相は自らの人気を忽せにしかねないパン屋の出現を忌々しく思った。そこで官房長官を呼び、「君、あの目障りなパン屋は何とかならんのかね」と訊いた。
官房長も予てからこのパン屋の異常な人気には目を留めていたらしく、「何か法律に抵触するところはないか、専門家にも委託して調べてみたのですが、何ら法律的には瑕疵がないとのことです」と応えた。
それはそうだろう。美味しいパンを作って売ると云うのは純然たる私的商行為だ。それを法律で取り締まろうとするところに無理がある。それにこの官房長官、無類のパン好きで、例のパン屋がまだ世に名を馳せていない頃からの隠れファンだったのだ。パン屋の規制に腰が引けてしまうのも無理からぬことであった。
しかし、首相は諦めなかった。
彼は策謀を練り、根回しをし、新たな法律を作った。
それは「朝食にパンを食べることは罷りならない」と云う法律だった。若いパン屋は困惑した。国内の米農家の生活を守ると云う口実で作られたこの法律は、当然のことながら不評だった。しかし施行されてしまえば法律は法律として効力を発する。そこで人々は朝食でパンを食べない代わりに、それまで以上に昼食と夕食にせっせとパンを食べることになった。
これに色を為したのが首相だった。今度は「パン食全面禁止令」が発布された。若いパン屋は絶望の淵へと追い遣られた。官房長官をはじめ閣内のパン好きの閣僚はこの法律の成立に難色を示した。だが、この身内からの反発は首相の決意の炎に油を注ぐ結果となった。強権を発動して法律を成立させてしまったのだった。
この天下の悪法に人々の怒りが爆発した。暫くパンを食べずに米や饂飩、スパゲッティなどで代用していた人々も、あのパンの小麦の香ばしさを懐かしみ、口腔に蘇る食感に溜息を吐き、その想いは次第に強い怒りとなっていった。
そして遂に暴動が起き、政府は呆気なく転覆してしまった。
世に言う「パン騒動」である。
歴史は正史のみで構成されているわけではない。裏面史を繰れば、兎角庶民の舌に深く首を突っ込み過ぎる政府の凄惨な末路を辿る姿が垣間見えるのだった。


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