見出し画像

第五十七話 デジタルカレンダー


バケツを引っくり返したような雨が長時間続いた。これまであまり聞いたことのない「線状降水帯」と云う言葉が定着した今年の梅雨だった。
梅雨明けと共に今度は猛暑が始まった。
四十度を超える日が何日も続き、人間や犬ばかりでなく、草木もぐったりしてしまった。外は灼熱地獄で、外出する気にもならず、部屋でクーラーを点けて何をするともなく過ごす今年の夏だった。
そんな夏のある日、横になって何気なく目を遣ると、ゴルフボールくらいの大きさのシミが珪藻土を塗った壁に浮き出ていた。数日経ち、また本を読みながら床に寝転んでいると、壁に向けた目にさらに拳大になったシミが飛び込んできた。
「シミは日を追って大きくなっているんだ」、そう思ってよくよく注意して観た。すると、その数日後には掌大の大きさに成長していた。
結局、秋も過ぎ、年の瀬が近づく頃には、結構な大きさのシミが壁に残ることになってしまった。このまま新年を迎えるのも何となく憚られた。そこでシミ隠しのために大判のカレンダーを貼ることにした。いつもは銀行で配布しているものや酒屋さんがくれる手頃なもので済ませていた。それも芸がないと思い、どうせ大判のものを調達するなら洒落たものにしようと文房具店に出かけてみた。
時節柄、店内はカレンダー一色になっていた。しかし、どれもこれもあまりぱっとしない。犬や猫などのペットもの、美しい自然の風景、花、乗り物、女性のヌードなど、昔から変わり映えのしないものばかりだ。
「カレンダーって、これはというものがなかなかないもんだね」
広告代理店に勤める友人と呑んでいるときに思わず口を衝いて出た。
すると友人はカレンダーには詳しいとみえて、蘊蓄を披露してくれた。
「暦はその地域の文明と結びついてさまざまなものがつくられてきてね」と語り始めた。酒が入っている。語り始めるともう止まらない。
「日本でも昔は旧暦と呼ばれる太陰暦が使われていてね。世界中にはマヤ暦、バリ暦など、宗教と結びついたユニークなものも考えられてきたそうだ。これからも現行の太陽暦だけじゃなく、面白いものが出てくるかも知れないぜ。う~ん、そうだな、例えばの話だけど、『電話カレンダー』なんてどうだろう。電話で時報を知らせてくれるサービスがあるけど、あれのカレンダー版だよ。『本日は二〇二二年十一月三十日。ただいまの時刻は十時三十分です』とかね。毎日知らせてくれるのさ。もういちいちカレンダーを見なくても済むけど、機械音っていうのがちょっと味気ないかな」
「『木の葉のカレンダー』も面白そうだよ。病床の窓の外に人工の柏の木を植えておくんだ。葉っぱは三六五枚。退院するまでの日にちの枚数を色分けしておいてね。毎日、一枚ずつ葉が散っていって、退院までの期間を知らせる、とか」
「そのうち『宇宙カレンダー』なんてのも出てくるかも知れないよ。宇宙飛行士になって他の惑星に住んだり、宇宙空間に漂う宇宙基地に滞在したりすると、地球のように太陽が周期的に出没するわけじゃないから、曜日や季節の感覚が麻痺してしまう。そこで地球を想い出させる匂いや音の出るカレンダーなんか喜ばれるんじゃないかな」
彼の話は尽きないようだ。そして最後に「そうそう、デジタルカレンダーってのも早晩出てくるだろうね」と話しを継いだ。彼によるとこうだ。
これまでのカレンダーは全てアナログだ。それはカレンダーのそもそもの始まりから運命付けられていた。一日が終わると次の一日が始まる。昨日は今日に、今日は明日に取って代わることはできない。日にちつまり時間は、一方向にしか進まない。時間の流れは不可逆的なのだ。
それに代わってデジタルカレンダーは日にちの設定がランダムにできる。今日の後に昨日が来てもいいし、昨日の前に明日が来たって一向に構わない。時間は任意に設定でき、前にも後にも進む。時間の流れは可逆的なのだ。
このデジタルカレンダーのメリットは、人は時間に縛られないところにある。自分だけの時間が設定できる。日にちに融通が利く。自分だけの都合で設定されたオリジナルカレンダーの出来上がりだ。なんだかうきうきしてくる。
彼も早速デジタルカレンダーを使ってみることにしたそうだ。紙のカレンダーは一年間不変だが、デジタルカレンダーにしてみたところ、自分の都合で設定がころころ変えられる。最初は都合がよかったが、だれもが勝手な日時を設定するのでカレンダー本来の役割を果たさなくなる。その結果、予定が立たなくなる。企業の生産計画がたたない。学校の行事が組めなくなって教育現場が崩壊する。看護学校の行事が立てられず、医療現場で人手不足が生じる。外交日程が組めなくなって戦争が頻発する。農作物の植え付けが場当たり的になり、食糧不足を惹き起こす。パニックが起こって人類は死滅する。
「そこで止むなく従来の紙のカレンダーに戻るってわけさ」と呵々大笑した。
まじめに聞いていたら、まんまと彼の法螺話に乗せられてしまった。
酒も進み、ラストオーダーの品も出尽くし、そろそろ腰を上げる時間になった。店を出ると、商店街のそこここに注連縄が飾られ、門松が立ち、もう新しい年を迎える準備がすっかり整っていた。さあ、いよいよ新しいカレンダーの出番だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?