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雨の中、箱の外。

大学生最後の春休み某日、ブランドショップひしめくシャンゼリゼ通りにいた。

秋から冬の京都は常時短期アルバイトの募集があったおかげで私は卒業旅行費用のほとんどを賄うことができ、何とかオフシーズンにヨーロッパに行くことができる程度の額を貯めることができた。

西岸海洋性気候の代名詞、どんよりとした灰色の雨空の下である。

各ブランドの意地かプライドか、各店舗が今一番目立つのはここである私であると主張するように工夫を凝らし立ち並ぶ姿は壮観だった。中には工夫を凝らしすぎて入口すら分からない店舗もあったが、入口が分からないということは向こうも入口を教えるに値しないと思っているわけで、そもそも顧客として見られていないのであろう。

しかしそんなことは気にもならないくらいに高揚していた。その高揚は、花の都の一等地の豪奢な歓待を受ける一方で、高級ショップの顧客として見られていないことからくる購買への期待から解放された状態に由来するものであった。気軽で、気楽で、幼稚なものであったが、大学生の卒業旅行とはそういう類の高揚の最後の機会なのかもしれなかった。

とりわけ目立ったのはヴィトンのショップだった。改装工事のため店舗は同ブランドのトランクを模した巨大な覆いを施されており、街の中に突如巨大な真っ白の箱が置かれているようで、その異質さによって最も観光客の視線を集め、ブランドの威光を彼らの記憶とスマホの画像フォルダに記録させることに成功していた。私も、建物の大きさと異質さと、そのチグハグさに対する多少の嘲笑をもって店舗を見上げながら歩いていた。見上げながら歩くと足元への注意が疎かになるのは致し方ないことかもしれなかった。


カン、という短い音と爪先への刺激によって私は現実に引き戻された。道に置かれた空き缶を蹴り上げてしまったらしい。足元には、空き缶と無数のコインと、そして少し離れたところに青い2つの目があった。

私はどうやら、雨の中物乞いをしている青年が道に置いた空き缶を蹴り上げて、彼が集めたコインを道にばらまいてしまったらしい、ということをそこでようやく理解した。


日本の日常生活の範囲内で見ることはほとんどないが、ヨーロッパの街角で物乞いをする人はとても多い。街角で失った手足を掲げる人、電車の中で乗客一人一人に缶を差し出す人、下着が見えるように服を半脱ぎにして土下座のポーズをとる人。これらすべての人々に対して、私はそれまで無関心と無表情をもって彼らの存在が見えないように振る舞っていたが、今私の足首によって強制的に、私は雨に濡れた歩道に座り込む青年とのかかわりをもたざるを得なくなってしまった。金銭の介在と顧客として相手にされないことから生じる透明性によるある種のバリアのようなものは完全に消え去り、今初めて真の異文化コミュニケーションに文字通り足を踏み入れてしまったことになる。

呆然としている間に現地の紳士淑女によって道に散らかったコインは再び缶の中に納められ、目に見える限りでは私と彼の間にあるコイン1枚が残されていた。すぐにしゃがんでその何セントかを手渡す必要があった、しなければならなかったが、私は中腰の姿勢のまま全く動けなかった。未だ自分がとるべき言動が分かっていなかったのである。冷たい雨の中尻を濡らしながら物乞いをしている最中に、同年代の、海外に旅行に来る程度の金銭的余裕があるアジア人にその日の稼ぎを蹴り上げらた彼の心情を推し量り、しかし推し量れず、一挙一動全てが自他を傷つける行為に直結していることへの重圧で体が動かなかったという感想は、言い訳にはなるのだろうか。

街の雑音も雨音もない無音のためらいの時間があって、黒い外套に黒い傘を差した男性がコインを拾い上げて缶の中にそれを落とした。世界はほんの少し前の状態に戻り、アジア人と青年と黒い傘を差した男性が残された。

男性はコインを入れた後何か声をかけているみたいだった。青年もなにかメルシーの後に少し続けて言葉を返し、男性は青年の肩を優しく叩いて雨の中に消えていった。私はようやく這うように彼のもとに行って、男性がやったように何か言おうと思った。行動をまねようとするのは異文化に入ろうとするときの人間の体に染みついた作法なのかもしれない。しかしI'm sorry..から始まる拙いフレーズに対して、彼はこちらに目線を向けることはなかった。今まで私がしていたように、無関心と無表情をもって燦然と輝くブランドショップの灯りをじっと見つめていた。

私は、私は不意に立ち上がって彼に背を向けた。そして、まるで急き立てられるかのように青信号になったばかりの横断歩道を渡ってしまった。


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