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「家政婦は見た!」を、ちゃんと見た!

市原悦子さんが亡くなられた。
我が家では(というのは私と母がということだが)
「家政婦は見た!」(テレビ朝日)
「おばさんデカ 桜乙女の事件帖」(フジテレビ)
で、大変お世話になっていた方である。

テレビ朝日では追悼として、先週末(2019年1月19日と20日)に
「家政婦は見た!」の24と25を再放送していたので
リアルタイムで見た。

そして、このドラマの凄さを改めて思い知ったのである。

以下、「脚本(柴英三郎)」と「市原悦子(以下あえて敬称略)の演技」
という視点から、この作品の凄さを(勝手に)紐解いてみよう!

▼家政婦は見た! とは?

あなたが、おばあちゃん、お母さんなど
【50代以上の女性】のいるご家庭で育ったのであれば、
ちらっとご覧になったことがあるのではないだろうか。

しかしnoteをやっている若年層では、
「市原悦子がドアから覗いている」というイメージ画像は浮かぶが、
実際どういう話なのかはあまり知らないという方がほとんどではなかろうか。

そんな人はまずWikipedia。

(wiki様によれば)シリーズ第1作は1983年放映!
なんと原作は松本清張!!
家政婦は見た!の原型が松本清張って知らなかった…。
そりゃ面白くないはずはない。
 
そういえば、テレビ朝日は
松本清張原作×米倉涼子で
次々アタリを取っていた時期がありましたね(黒革の手帖とか)。
だから米倉涼子でも「家政婦は見た!」をやったのかも(邪推)。

市原悦子の役名は【石崎秋子】。
所属は大沢家政婦紹介所。

大沢家政婦紹介所は、
・会長さん(たぶん一番年配、ベテラン感が漂う)
・家政婦A(「そうそう」と言う賑やかし)
・ちょっとだけ若い家政婦(若いので流行を解説したり、囮になったり)
・秋子(市原悦子)
の4人で、一軒家に同居している。
今風に言うとシェアハウスである。

会長さんは、家政婦仕事はせず、
仕事を請けてきてみんなに割り振る、遣り手婆的存在。
おそらく大家も兼ねているのか、お金に細かく、
みんな頭が上がらない。

家政婦たちは毎日、この一軒家に帰ってきては
ちゃぶ台を囲み、派遣先のあれこれをサカナにごはんを食べる。

あ、忘れてはいけない。
秋子はハルミちゃんという小猫を飼っている。
ハルミちゃんは新しい話になっても成長はせず、
常に小猫である。
一説(私の母情報)によると
「ハルミちゃんは毎回違う猫」とのことだが
真偽は不明である。
というか、それ以外考えられないよ…。

えー、あくまでもこないだ私が見た
24と25からみるに、
シリーズのおよそのパッケージは以下の通り。

★1(導入)秋子がパジャマ姿でハルミちゃんを相手に古い歌を歌う
※この歌が毎回、私はまるで聞いたこともない、
 演歌でもないし、童謡みたいな歌なのだが
 母(昭和23年生)は一緒になって歌っていたので、
 秋子オリジナルではなく、おそらく昔流行った歌なのだろう。

(起)秋子に新たな仕事が舞い込む。

★2(承)
秋子が派遣先に行くと、
初日にその家の問題が全て顕在化
(例:派遣先が社長の愛人宅で、会社は社長派と改革派でもめている)
そして、その家の事情を良く知り、
家族ではないやや客観的な立場の人(例:社長秘書)が、
秋子=視聴者に情報をすべて開示

★3(転)
いろいろ起こる
★4
秋子もこっそりいろいろ調べる

★5
秋子が調べたことを随時大沢家政婦紹介所に報告
ちゃぶ台で盛り上がる

★6(結)
雇い主が破滅的な最後を迎える(逮捕、失脚など)
秋子、簡単な事件の解説をした後、その場で職を辞す

★7
その直後、秋子は何かのはずみで怪我をする
(だいたい、本筋にあまり関係ないもらい事故)

★8(エンディング)
翌日、いたいたしい包帯姿の秋子、
電車に乗って新たな職場(豪邸)に行く。
(このへんからエンディングのクレジットロール)

★9
豪邸の門にしがみつき
(なぜかインターホンは押さない)
「ごめんくださいませ…
 大沢家政婦紹介所から参りました…
 ごめんくださいませぇ~!!」
という絶叫のカットで終わり。

順に見て行こう!

▼黄金のマンネリ(水戸黄門的安心感)
★1(導入):市原悦子が歌を歌うシーン。

独身で(離婚歴あり、息子は向こうにとられたもよう)
50は超えていそうなおばさんが
パジャマで首に何か巻いた姿で、
小猫のハルミちゃんに
「ハルミちゃん、いいねえあんたは」
とかなんとか話しかけながら、歌を歌う。

これはよくよく考えると、相当痛いし、すごく怖い。

しかし、視聴者はこれを見て「ああ、始まった」と安心する。
水戸黄門で、ご老公一行がうっかり八兵衛をからかいながら
てくてく歩いているのを見て安心するのと同じ気持ちだ。

それを可能にしているのが市原悦子という女優の「在り方」だ。

市原悦子が相変わらず
(失礼ながら)ちょっとふくよかで、
おばさんぽさを維持していることに
(中年以上の)女性視聴者はたまらない安心感を覚える。

急に痩せたり太ったりすると「病気かしら?」と心配になるし、
急にキレイになったら「整形かしら? どこをやったのかしら?」と思う。
秋子に関してそういう心配は一切ない。
かわいらしいが美人すぎず、
ちょっとだけ野暮ったいおばさん。
市原悦子だからこそ表現できる「普通のおばさん」である。
野暮ったいパジャマ姿に若干色っぽさを感じてきたら上級者である。

多分、市原さん自身は近くでお会いしたら
とてもきれいな方だっただろうと思う。
気取らず、目鼻立ちが優しいところを活かして、
「おばさん」の演技をしておられたのだろう。

この話は家政婦が「安心感のあるおばさん」でないと
話が進まないからこれは大事である。
市原悦子が腹を括って「おばさん」に徹してくれたおかげで
このドラマは成立しているのだ。

なお、★5のちゃぶ台シーンもお約束である。
だいたいドラマの中間くらい(22時くらい)に
秋子が会長さんたち相手に、
ほどよく現在の進捗をまとめて報告することで
視聴者も頭の整理をしながらドラマを見続けることができる。
視聴者層がほぼ中年であることへの配慮である。

▼秀逸すぎる設定
★2(起):この家の情報を手に入れる

一応、日本劇作家協会に末席を連ね、
戯曲も書いている身としては、ここを強調しておきたい。
このドラマ、「設定」勝ちなのである。

やや専門的な話になるが
「観客にどうやって『情報』を伝えるか」
というのは結構難しい。
特に最初の「謎」の提示だ。

およそ台本が必要な作品は
「事件が起きて、それに翻弄される人たちの話」である。
平田オリザ氏言うところの「右往左往」である。
だから最初に「事件」や「謎」がないとドラマは始まらない。

テレビの刑事ドラマが一番わかりやすい。
だいたい冒頭で殺人事件が起きるが、
それは「このドラマは、『この事件の謎を解く』という話です!」という宣言なのだ。

そして刑事ドラマのように1回完結ドラマの場合は、
冒頭で「過不足なく」情報を出す必要があるが
それがむずかしいのである。

出し方が足りないと、後から
「え、そういう話だったの?」となるし、
だらだら情報を出していたら早々に飽きられてしまう。

しかもその情報を出すのにも
一定程度「ありそう」な感じでやらないといけない。
リアリティ(ナチュラリティ)の問題である。
あくまで登場人物たちの会話から
自然に情報が提示されないといけないのだ。
「説明しよう!」というナレーションを入れるわけにもいかない。

この点、刑事ドラマであれば、刑事なので
「いろいろ聞き込みをして回った結果」
という名目で、主人公の刑事たちに情報がいきわたり、
それによって視聴者に情報が開示される。

このドラマの主人公は「家政婦」である。
家政婦は警察ではないので公権力で人から話を聞きだすわけではない。
しかし、この「家政婦」という立ち位置が絶妙なのだ。

秋子が派遣先に行くと、何かしらもめごとが起きる予兆がある。
そのもめごとの気配を察して、秋子が首をつっこむ。
この時、秋子はちゃんと話してくれそうな人を見定めて聞く。
そうすると、尋ねられた人物は
「このおばさん、噂話好きそう」
「家政婦だから、ある程度のことは知っていてもらわないと」
「雇用関係もあるし、下手なマネはしないだろう」
「家に関係ない者同士の連帯感」
などから、今起きている問題の経緯を
ぺらぺらとしゃべってくれる。

秋子は何なく必要な情報を手に入れ、
視聴者も自然に情報を受け取ることができるのである。

これに気づいた時、私は雷に打たれた思いがしました。

なにこの便利なシステム……!!
(30年以上続いたドラマに今更失礼ですが)

民間人でここまで情報を吸い上げられる立場があるだろうか。
近所のおばさんの身分で、そこまで入り込んで聞けるはずもない。
家にいるけど家族じゃない。
秘密は守る(秋子も大沢家政婦紹介所以外には漏らさない)。
この「第三者」は最高の立場である。

(すみません、この文章、ここまででまだ半分です…!)

▼誰も死なない・ただ覗くだけ
★3(転):いろいろ事件が起きる

ちょっとした事件が次々起きて、いろんなことが分かってくる。
誰と誰が実はくっついている、とか、
誰と誰は、表面上仲が良いが実は裏で権力争いをしていて、とか、
誰と誰は、実は親子だった!とか。

刮目すべきは「殺人事件」は起きないのである。

その前になぜ世の中に「殺人事件を捜査するドラマ」が多いかと言うと、
「殺人」という事件は最高に「ドラマチック」だからである。
話になる。ドラマ性がある。
人が死ぬ、ということはそれだけで大事件である。
さらにその「死」の経緯が不可解なまま放っておかれることはない。
「なんかよくわかんないけど、窓もドアもない部屋で人が死んでて
死因も不明だけどまあいいか」ということは、絶対ないのである。

さらに人が死んだことによって
被害者の生い立ちを追ってもいいし、
捜査の過程を追ってもいいし、
犯人の事情を追ってもいい。
(物語を作るという意味では)もうそれだけで美味しくできる素材なのだ。

しかし、この「家政婦は見た!」というドラマは、
根本的に「死体が出て、殺人の謎を解く」という話ではない。

「スキャンダルを深堀りしたところ
 思わぬ人間の業がちょっと見えた」
という話なのである。

私の知る限り、このシリーズにおいて
話の流れで人が死んだことはあったが、
最初に殺人事件があってそれで引っ張る(話の核になる)
ということはなかったのではないかと思う。
(あったらすいません。でもシリーズ全26回の内、そんなに多くないと思う)。

タイトルを見ても(wiki様より)
「華やかな私生活の秘密」とか
「女たちの骨肉の争い」とか
「理想の家庭に二つの顔の秘密」とか…
要するに覗き見である。

でも「覗き見」だけで
ドラマを引っ張るって、すごい。
一仕事終えた奥様たちが「まあ」とか「ありそう」とか言いながら
なんとなく見入ってしまう。
この大衆心理を知り尽くしたテクニック!

そしてもっとすごいのは秋子の動く「動機」である。
秋子は家の秘密を知るや
ときには嘘をついたり、カマをかけたり、家政婦仲間を使ったりと、
あらゆる人物から情報を手に入れ
必要があれば、おそらく自費で
家政婦仕事の合間に遠方(キーパーソンの実家とか)まで
出かけて行ったりと、
精力的に行動するのだが、
その動機=モチベーションは、ただ「好奇心」なのである。

警察は、調査するのは義務であり職務である。
探偵なら、調査するのは金と依頼者のため。
しかし、秋子は誰にも秘密を解いてくれと頼まれてはいない。
何ならクビをつっこんで怒られたりしそうな立場である。
彼女がそこまでするのはただ1つ、
「気になる、面白そう、見たい」から。それだけ。

▼独り言までも「計算」

秋子は独り言が多い。
仕事を終えて「こんなに広い必要ある?」などと言うのは序の口で、
事件が核心に迫ってくると、派遣先の台所で
「これは…大変なことになってきたよー!
 本妻と愛人の一騎打ちに、お家騒動も加わって
 面白くなってきたーッ!」と
一人で、誰も見てないのに大芝居をし始めたりする。

よく考えると、そんな情緒不安定な家政婦が家にいたら
すごく怖いし、痛い女である。
あと誰に言ってんだかよくわからない。視聴者を煽ってるとしか思えない。

しかし、おそらくその点こそが、秋子が
視聴者(熟年主婦層)に愛される秘密なのだと私は見ている。

独り言は、舞台で言うならモノローグだ。
このモノローグも、扱いが難しい。
難しい理由として、私個人は
「なぜその人物が今そこで独り言を言うのかを
 観客に納得させられないといけないから」だと思っている。
先ほども出た、ナチュラリティの問題である。
シェイクスピアの芝居は独白が多いが
(これは時代的なものもある)、
でも現代日本で、ハムレットみたいに
不意に一人で苦悩に沈み、独り言を吐き散らす青年がいたら、怖すぎる。

でも秋子が独り言=モノローグをを言っても違和感がない。


それは「おばさん」が、独り言を言う生き物だからである。

スーパーに行くと、よくおばさんが独り言を言いながら
品物を見定めている。
「これ…は安いと思うけど、まだあるからいい」
「あらこんなんあるの…初めて見た…」
心の声に蓋ができない。
これは一種の老化だと思う。

ちなみに私も蓋ができなくなってきた。
疲れている時は、思っていることを全部口に出して言っている
(疲れているので口に出しているという意識もない)。
たぶんまわりの若い人はひいていると思うが
生温かい目で見てほしい。疲れてるのよ…。

ちなみに、おじさんとかおじいさんも
よくブツブツ言っているのに出くわすが、
だいたいネガティブなことを言っていることが多い気がする。
「なんでこれはこうなんだ」
「ちぇ、わかりにくいな」
ずっと文句を言っている。怒りっぽくなる、それも老化…。

そういうわけで
モノローグで話を進めてもOK。秋子が視聴者を煽るのもOK。
独り言を言う秋子を見て、
主婦層は「そうそう、私もつい言っちゃうのよね」
と、これもテレビに向かって独り言。
ここまでくると、「おばさんの家政婦」ってキャラクターとして最強である。
「おばさんだもの」という鮮やかすぎる解決。
ていうか、全部「計算」ですか?

▼不思議な終わり方
★6(結):破滅と秋子の辞職

さて…さきほど、このドラマは「謎を解決」するタイプではないという話をした。
言うなれば「秘密が少しずつ暴かれていく」このドラマ。
問題は終わり方である。

刑事ドラマ→殺人事件の犯人が判明、逮捕
医療ドラマ→手術が成功
恋愛ドラマ→恋が成就して結婚、あるいは別れ

「家政婦は見た!」は一体どう終わればいいのだろうか。

母と見ていた頃(最終回が2008年なので10年以上前)は、
私は20代で、このドラマは終わり方がスッキリしないなあ、
とぼんやり思っていた。

割とハッピーじゃない終わり方をすることが多いのだ。
「悪いやつら」は逮捕されたり失脚したりするが、
「悪いやつら」に復讐したり、懲らしめようとしていた側の人たちも
あまり「ヤッター!大成功!」という感じにはならないのだ。

秋子は
「あなた方が復讐したかったのはこういう理由ですね。
 でもそれって果たして幸せなんでしょうか?」的な一言を言い、
最後に決め台詞。
「全て見させていただきました。これにてお暇いたします」

秋子はしゅんとした当事者たちを前に
いきなり辞職宣言、エプロンを脱いでその場を去る。

ええーーーーーーー!!!

確かに秋子が辞めないと、ドラマ終われないけど、
それってつまり「秘密は全部わかったから、もう用はない」
という感じなのだろうか…。だとしたら家政婦って一体……。

しかし30代になり、人生いろんな経験をして、私は悟りました。
思うに、これはあえて「スカッとしない」ように作られているのである。
勧善懲悪ではなく、「どっちもどっち」という描き方をして
「それが人生、勝ち負けなんかない(執着したらどっちも負け)」
という哲学を表しているような気がする。

私は複雑な殺人事件の最後で
能天気に「犯人逮捕されて良かったね」みたいなラストだったりすると、
「え、でもあの犯人のお父さんはこれからどうしたらいいの?」とか
「そもそもあの女がどっちが好きかはっきり意思表示しないからだよね」とか違和感を感じるので、
むしろ「人生に勝ち負けなんかない」というのは
納得できる終わり方である。

でもさすがにそのまま終わるのは、ちょっと視聴者置いてけぼりなので、
最後は、秋子が怪我(だいたい、もらい事故で転倒し、頭などを打つ)→包帯姿で出勤、と笑って(?)終われる配慮もなされている。

でも次の派遣先、
突然包帯姿の家政婦来たら
「大丈夫か?」って思うと思うんだけどなー…
そもそもセレブ界隈で秋子のことがウワサになったりしないのか、
(スキャンダルあるところ秋子あり)は謎のままである。。。

▼長く続く作品には哲学あり
何でもそうだと思うが、
ロングヒットするものには哲学がある。
それはよくよく考えると変だったりするが
作り手が真剣に続けていると、
そのブレなさが、かっこよくなっていったりする。
たとえロングヒットしなくても
伝説として、テレビマニアの間では残るのではないだろうか。

今の「ロングヒットドラマ」といえば「相棒」(テレビ朝日)だろう。
マンネリ、右京の相棒はやはり亀山君だ、
「花の里」の客が少なすぎて経営が不安、などなど
文句を言われながらも、こうやって続いているのは
「相棒」にも独自のスタイル=哲学があるからである。

「特命係」なんて存在しないことは分かりつつも、
右京の緻密な推理と、警察内部や国政などの権力闘争の本当っぽさが
あるから、成立しているし、支持されているのだ。

「家政婦は見た!」にもブレない哲学があった。

つまり

無理のない設定(ナチュラリティ)と、突飛な設定(オリジナリティ、スタイル、哲学)がうまく同居していると、その作品は人の心に残るんだなあ。

お! 『メモの魔力』(著:前田裕二)の
具体→抽象→転用ができたかも!(笑)

同じ書き手として
「私もそんな作品がいつか書けたらいいな♪」
と言えればいいのだが……
とてもそんな大それた夢は描けず、
ただただ、
そんな哲学のある作品がこれからも見たい、
あったら発掘していきたい
と願うばかりなのである。

改めて原作の松本清張、
ドラマ脚本の柴栄三郎、
主演の市原悦子にひたすら脱帽である。

なお、市原悦子は「これが最後」と決めて
家政婦は見た!シリーズを終えたと記憶している
(ちゃんと「最終回」があったのだ)。
そんなところも、かっこいいなと思っている。

(今回は長かった…全部お読みいただいた方、あなたの忍耐力は天下一です!)

これからも書き(描き)続けます。見守ってくださいm(__)m