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時間旅行者の孤独

 まず、春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆ(以下、おゆの詩文に漂う孤独の気配について考えた後、貴族になった老が民衆の姿を文章にするという時代を超える「冒険」を行った背景を探ります。最後に常陸国風土記の老以外の書き手を取り上げ、老の独自性を再確認します。

 春日蔵首老の作る歌や文章には、しばしば深い孤独感が漂います。「つらつら椿」や「真土山」以外にも、「つのさはふ 磐余いはれも過ぎず 泊瀬山はつせやま何時いつかも越えむ はふけにつつ*1」「照る月を 雲な隠しそ 島陰しまかげに 我が船てむ とまり知らずも」も同様です。どちらも暗闇の夜の旅に同行者がいないかのようです。ことに後者は船旅ですから、一人きりだったはずはないのですが。

 こうした老の特質は、常陸国風土記で、倭武天皇やまとたけるのすめらみことの孤独を泉水で手を洗う描写として形象化したところにも示されていました。こうした表現は、老が孤独だったために生み出されたのでしょうか? 残された記録からは、彼が孤立して生きたのではないことが分かります。曲水の宴という雅な遊びに参加し、娘を藤原家に嫁がせ、貴族の冠位を授かる……孤立した人間には無理です。

 とはいえ、こうした諸々は老の心が孤独でなかったことを証明しません。わずかな経歴を除けば、私たちは彼の人生を知りませんし、孤独は孤立とイコールではなく、結局のところ個人の内部の問題だからです。しかし、老のキャリアを見直すと、彼の孤独を深めることになったであろう節目があるのに気づきます。

 他でもない、貴族に取り立てられたことです。詩文に優れ、恐らく官吏としても有能だった老は、貴族に列せられて喜んだでしょう。しかし一方で、高位の貴族のそばにあって貴顕の暮らしを熟知していた彼は、自分のような成り上がりの貴族が、生来の身分として貴族である者から、どう見られるのか分かっていたはずです。鋭敏な感受性を持つ詩人が、貴族社会の中で居心地の悪さや引け目を感じなかったとは思えません。

 そんな老に与えられた任務は、都からはるかに遠い東国常陸に赴いて、朝廷への報告を作ることでした。老は各地を歩いて見聞を広めます(そうした巡行は中央から派遣された高位の役人の義務でした)。彼は、人々が暑い夏の盛りに川辺で楽しむ様子や、歌垣の恋愛遊戯などを見聞きします。彼は貴族になる前にはそうした民衆の側にいたのに、今や外から観察しています。

 老は、宮廷や国衙こくが(国司の役所)で味わったのとはまた違う孤独を感じたに違いありません。自らが最早戻ることのできない幸福な場所がそこにある、と……これは突飛な空想ではないと思います。漢文学を深く学んだ老は、山上憶良と同様、こうした民衆の姿が文章の素材となることを知っていました。そこで老は人々の楽しむ様子を無味乾燥な官僚風の文章や、教養をひけらかすような美文ではなく、自らの詩想を活かして綴ったのでした。

 常陸国風土記には人々の楽しむ姿が、何度も描かれています(当ブログでは常陸国2412など)。その理由を、私は上記のように理解しました。もちろん、老は幸福な人々ばかりを見たのではないでしょう。憶良が貧窮問答歌に描いたような苦しみは、常陸国の人々にもあったはずです。しかし、朝廷への報告者に課せられたのは場所を褒めることでした。老は当然そのようにします。ただし、通り一遍には書かなかったのです。かつて誰も文章にしていなかった人々の素のままの姿を、簡潔に、また活き活きと写し取ったのでした。

 そうした文章は、当時ほかにはありません。常陸国風土記には、前述のように複数の書き手、編纂者がいました。どれが老の文章なのか吟味するのは楽しそうですが、遠い難路になりそうなので、ここでは老作でないのが明らかな二例を挙げ、どう違うのか見てみます。

 一つは香島郡かしまのこおりです。香島神宮の由来を記す最初の部分は難解です。「めるとにごれるとあざはり、天地あめつち草昧はじめより已前さき……」というような文体で、み下しでおよその意味が通る他の常陸国風土記の文章とは大きく違っています(現代語訳は、どれも注釈の解釈を取り込んだような訳文です)。編纂者が誰であれ、権威ある香島神宮をいただく香島郡からあげられた報告を「添削」できず、原文のまま載せたのではないか、と私は想像しています。

 次は常陸国10で取り上げた際、情景描写の文章をカットした童子わらわの松原の伝説です。ここには「伝説歌人」高橋虫麻呂が関与した気配があります。しかし、四六駢儷体しろくべんれいたいの美文による情景描写は虫麻呂らしくないのです。この部分は国司だった藤原宇合うまかいが、自作の文章を虫麻呂作の下書きに上司の力でねじ込んだのでは、と想像したくなります。宇合は懐風藻に多数の漢詩が収載される詩人でもあり、虫麻呂の平易な文章に間に、都人みやこびとに評価されそうな得意の美文を加筆をした……と。本文の下に訓み下し文を引用しておきます*2。

 宇合が国司の時代に報告が朝廷にあげられたとすると、彼(と虫麻呂)は老の残した「下書き」を目にしたはずです。二人は老の文章を、どう読んだでしょうか? 二人は老の優れた文章に感心し、面倒が省けるのこともあって、多くをそのまま活かしたと推察します。その上で、伝説や、美文による描写を付け加え、時には「添削」しました。老は成り上がりの貴族なので、香島郡の文章と違って書き直すのに遠慮する必要が無かったわけです。

 老は、常陸国風土記の書き手としてほぼ忘れ去られました。時間旅行者は孤独です。しかし、老の時代を超える特長を持つ文章は、不完全な形とはいえ常陸国風土記の中に残されました。私はその痕跡を拾い集める旅をしたことになります。楽しい時間でした。もし同じように楽しんでくれる人がいたなら、嬉しく思います。

*1 (「つのさはふ」は枕詞)まだ磐余さえも過ぎていない。泊瀬山はいつ越えられるのだろうか。夜はふけていくのに。
*2 下の文章が、「恋の行方」の章の「笑みがこぼれるのでした」と「今宵の二人には」の間に入ります。
 時に、玉の露おく杪候あきのくれ、金の風とき皎々あきらけき桂月つきの照らすところは、たづ西かへなり。颯々さやげる松颸まつかぜしのふ処は、わたかりやまなり。よひ寂寞しづかにしていはほしみづり、夜は蕭条さびしくしてけぶれる霜新たなり。近き山にはおのづから黄葉もみちばの林に散る色を、遙けき海にはただ蒼波あをなみいそたぎつ声を聞く。(小学館『新編日本古典文学全集 風土記』の訓読による)
 以下、余談です。かつて(戦前?)は、こうした美文が常陸国風土記の文学性の高さを示すものと考えられていたようです。高度な漢文ではありますが……。別の角度からアナクロニズム的な解釈をすれば、この文章は、ストーリーの山場でわざと展開を遅くして読者を焦らせ、緊張を持続させる「遅滞の技術」として挿入されているように見えます(主人公と敵がついに相対するも、様々な「邪魔」が入って対決が開始されないというような)。

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