見出し画像

二人の時間旅行者

 万葉歌人を代表する一人である山上憶良を、常陸国風土記の重要な書き手と推定される春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆと共に、時代に先駆けて民衆を描いた「時間旅行者」と呼ぶことにします。二人の経歴から、彼らが時を超える・・・・・ことになった理由を探ります。

 春日蔵首老と山上憶良、二人は同じ大宝元年(701年)、初めて記録(続日本紀しょくにほんぎ)に登場します*1。老は還俗げんぞくを命じられた僧侶として(朝廷の官吏とするためと思われる)。憶良は第8次遣唐使の少録(記録係補佐)として。それ以前の経歴は、両者とも殆ど知られていません。そして二人は、今度は時を同じくして和銅7年(714年)正月に従五位下の位階に昇り、貴族に列します。偶然なのでしょうか? そうではないはずです。

 僧侶から官吏となることと遣唐使への随行――与えられた使命は異なりますが、朝廷が二人の漢学の素養に期待していたことは同じです。老については前回触れました。憶良が冠位のないまま唐に派遣されたのは、低い身分にもかかわらず彼の優れた「中国語」の力が求められたからと推察できます*2。両者とも、確証はないものの帰化人の家系との説があります。

 しかし、帰化人の家系でなくとも、遣隋使以来の中国文化の吸収、蓄積によって、漢籍を読み、漢文を書き記す能力を持つ者は増えていたはずです。一方、朝廷は律令国家として制度を整えるため、こうした優秀な人材を貴族でない階層からも取り込もうとしました。和銅6年(713年)、後に風土記と呼ばれることになる地方の報告を求めるみことのりが出されたのは、こうした基盤が地方においても整って来たことを示しているでしょう。老と憶良は、官界のこうした新しい人材群の頂点にあり、並んで貴族に列せられたのでした。

 時間を少し戻しましょう。二人は外国に赴いたことで(老の場合は「多分」ですが)、様々な先進的な知識に触れることになりました。そうして得た知識の中には、文章に記されるのが公文書や彼らの学んだ書物(四書五経、仏典、歴史書や詩歌の類)に限らないということもあったでしょう。この発見が、彼らを時代のはるか先を行く表現者にします。

 唐では民衆の登場する「小説」が読まれていました。憶良は伝奇小説「遊仙窟ゆうせんくつ」を持ち帰り、国内で広く読まれるきっかけを作ったのでは、とも言われます。貴族でないという意味で民衆の側にいた憶良や老は、民衆が文章の題材となっていることにまずは驚いたでしょう。文章は公的なものであって、とりわけ神仏や高貴な者を描くためにあるという先入観を持っていたはずだからです。それが外国に行くことによって覆されたのでした。

 一方、風土記の土台となる報告文書を作成した地方の役人たちは、漢文で文章を作る術を修得していても、漢文学の広範な知識はありません。当然、民衆の生活を文章で表現できるとはと思わなかったでしょう。文章は公的なものという先入観の外に出ることは、国外で学んだ老や憶良と違って困難だったのです。このため話の素材は民衆であっても、文章にする際には、神々や天皇、皇子、高貴な祖先の話に置き換えられ、神話や伝説として後世に残ることもあったのでは、と推察できます。

 逆に貴族たちは、漢籍に民衆が登場しても気に留めなかったでしょう。まして市井の人々を文章で表現したいと考えるはずはなく、貴族もまた民衆を描くことはありませんでした。ここで、憶良と老の経歴の特異さが浮上して来るのです。彼らは外国に赴いて漢学を学び、さらに民衆と貴族の両側をまたいで生きるという、恐らく当時滅多になかった経歴を持ったのでした。この両面こそ、彼らが民衆を描くという前人未到の領域に進むステップとなったのです。

 彼らは民衆が表現の素材になり得ることを学ぶと、漢詩文の素養を活かしてそれを表現しました。憶良の貧窮問答歌には漢籍の原典があるとも言われます。歌は元々民衆の中から生まれたものですから、万葉集にみられる通り、貴族ばかりでなく、庶民の暮らしや感情も描かれています。そうした歌は、共同体の内部で育まれた類型的表現の中から浮かび上がって来たものでした。

 憶良による民衆の生の表現は、こうした共同体的な束縛を打ち破る直接的なものです。その原動力は、憶良の漢文学の素養という培養土の中で育てられたのでした。一方老は、公文書の中に民衆の表現を滑り込ませるという「冒険」を行いました。次回は、なぜ老と憶良が民衆の姿を描こうとしたのか、その内面を探ります。

*1 老と憶良を比較し考察する研究論文、文献を、私は見つけられませんでした。有名な憶良に対し、老はマイナー過ぎるのでしょう。というわけで、以下は様々な先行研究を参照しつつも、私のオリジナルな論考ということになります。
*2 憶良の漢学の能力は、後世においても高く評価されています。国文学者の小島憲之氏は「漢詩文が自らこなせた事は萬葉人の中でも上位にある」と記しています(『上代日本文學と中國文學』昭和37年)。
 写真は、令和4年正月、静岡県三嶋大社を初詣に訪れた善男善女(?)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?