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江戸時代の農民は人足仕事で大変、という話

 私とは無関係の由緒正しい彦根藩井伊家は、現在の世田谷区にあたる地域に領地を持っていました。井伊家は徳川幕府の譜代大名中筆頭にあたる家格で、藩主は幕閣として江戸に居住することが多いため、近傍に領地を持つことになった……といったことを、世田谷の領地で代官だった大場与一と妻美佐の残した日記について記した下記の本で知りました。

世田谷代官が見た幕末の江戸 日記が語るもう一つの維新』安藤優一郎、角川SSC新書、2013年。上の写真は世田谷代官屋敷(重要文化財。「世田谷代官屋敷パンフレット」より)。道路をはさんで屋敷の向かいに世田谷信用金庫本店があります。同金庫の代々の理事長は大場さんとの由。

 この本で興味深かったのは、農民が人足として駆り出される具体的な事例が記されていたことです。前回、街道で輸送を行う側の武士が藩の役人や宿場の問屋を相手に段取りをする様を見ましたが、こちらは領主の求めに応じて人足を手配する側にいた者の記録です。

 主要な街道では、宿場近くの農民が人足として輸送の加勢に使われました。高校日本史で習う助郷すけごうです。街道筋の助郷でなくとも、農民は時に荷物運びや供人足ともにんそくとして使われました。世田谷領でもそうでした。江戸市中では、殿様らの行列を立派に見せるため、口入れ屋が集めた農民を供人足として使うのは普通のことであり、彦根藩はこうした際、世田谷の領民を自前かつ無償で集めることができたのです。

 上掲書には、寛政七年二月から三月にかけて、井伊家の桜田屋敷からの外出の際に荷物担ぎ42人、豪徳寺での法事のための荷物運び32人、馬36頭と同数のくつわ取りの人足、姫君の寺院参詣の供人足82人を供出させられたと記されています。江戸近郊の領民だったばかりに便利にこき使われていたことが分かります。

 文久元年(1861年)十一月、皇女和宮かずのみや降嫁に際して世田谷領にまで助郷役が課されました。和宮は京都から江戸へ下る際に中山道を通りますが、用意された人足の数一万四千人、馬子二千人、馬二千頭が動員されたと上掲書にあります。五百人以上の世田谷の領民は板橋宿に出向き、江戸への荷物運搬の一端を担いました。板橋宿に前泊しようにも、多数の助郷人足が集まって宿を取れる見込みがなく、野宿に備えて暖を取るための炭や食料まで準備して行く有様でした。

 島崎藤村の「夜明け前」に、和宮の一行が小説の舞台である馬籠宿を通る様子が記されていますが、和宮通過の際の描写はむしろあっさりしていて、50キロにも及んだという「前代未聞」の大行列の準備の大変さが印象に残ります。前回見た柏崎からの見舞米の運搬といい、当時の陸上輸送では事前の用意が肝心だったようです。

 農民は、命じられれば本業を放り出して人足として参集しなくてはならず、助郷役は大きな負担でした。文久二年、藩主井伊直憲が京都に行く際に世田谷領で同行人足を募った時には、農耕準備の時季でもあり希望者がいませんでした。上方見物ができる、旅籠代くらい出す、と誘っても効果なし。代官大場与一は、井伊家と領民の板挟みになって苦慮しますが、結局村ごとに強制的に要員を割り振らざるを得ませんでした。

 五街道をはじめ江戸期に整備された街道や宿場は、参勤交代、藩の改易・転封の基礎でした。また、当時、内陸での大量の人員や物資の移動には、前回見たように藩という「国境」の壁を越え、強制的に動員される農民の労働力が不可欠でした。一方で、システマティックに整備された街道が、江戸期に商品経済が発展していく下地となったのも確かです。明治初めに藩が消え、助郷が廃止された後、街道は黎明期の日本資本主義経済の動脈となったのでした。


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