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考え、調べ、書く……書く

 頭の中がすっかり小説モードに移行してしまい、「はるかな昔」の最後の投稿をしようと思いながら、ほぼ2週間、どうしても書けませんでした。後書きで紹介した橋本雅之氏編『風土記』の書評を書くことも考えていたのにできていません。頭がそちらに向かないのです。風土記に興味がなくなったということではありません。

 そうではなくて、もし風土記について考えるとしても、小説の方からのアプローチになるかな、という感じなのです。脳内を駆け巡っている新しい小説をめぐるあれこれの中には、材料として風土記が入る余地が十分にあります。それどころか、むしろ風土記を素材にすることを考えただけで食欲・・が湧き、食指・・が取り込みに動いて今にも口内に放り込みそうな勢いです。小説を書こうとする欲動は、煩悩に近いものがあります。

 興味のある作品について考え、調べ、書くということを始めたのは、「はるかな昔」を始めるよりだいぶ前、個人的なブログを作成する準備に着手した2017年のことでした。その前には、会社員と小説について考えようと、会社という仕組みを日本において創り出した岩崎彌太郎の評伝を書いたり、会社員小説について理論的なアプローチをしたりしました(講談社から新書、単行本として刊行されました)。

 批評や論文を書こうとしたわけではなく、自ら見出した課題を解決するのに批評や論文の方法を取り入れることが役に立つと思ったのです。しかし、2017年にはこうした目的などなく、ただただ小説が書けそうにないので、執筆力(?)維持のため、古典を中心とした作品について考えたことや感想を書く作業を始めたのでした。まあ、リハビリです。

 そうする内、作品の内に課題を見つけ、その解決に向かって考え、文章を綴る行為が思いがけないほど面白くなって来たのです。やがて、考え、調べ、書くことは、人生の最大の楽しみなのではないかとさえ思い始めました。匹敵するものがあるとしたら音楽を聞くことですが、ブログの準備を始める少し前から耳鳴りが始まり、聞く楽しみの過半を失いました。

 この考え、調べ、書くという行為は、誰にも見せずに自己完結することもできたかもしれません。しかし、仮想的であれ読者を前提にした方が断然書きやすいのです。ブログは、アウトプットの方法として最適だったようです。ところが今や、考え、調べ、書くという行為を続けられなくなりました。70歳に手が届きそうな年齢になって見つけた最大の楽しみを放棄しなくてはなりません。

「小説脳」がそれを拒むのです。新しい小説はまだ準備が足りず、すぐに書き出せる状態ではないのに――。とはいえ、小説を書くことは、私にとってひたすら辛いばかりなので、書けそうになったからといって心が弾んだりはしません(書けない間は楽といえば楽でした)。なのに、至上とさえ思える「考え、調べ、書く楽しみ」を放棄することにためらい・・・・はないのです。小説は楽しみ以上のものだからでしょう。

 課題を見つけて考え、調べ、書くことは一連のプロセスです。それぞれの段階において苦心があり、時には難渋して頭を抱えることもありました。が、諦めずに少しずつでも進んで行けば、殆どの場合解決に至りました。小説はこうした単線的なプロセスではありません。

 小説を、考え、調べた上で書くとしても、「考え、調べ」た後、順を追って「書く」とはならないのです。その境に空間が広がっています。「、」ではつなげられらない断絶があります。小説は「考え、調べ……書く」であって、「……」を飛び越えるには、段階を踏むのとは別次元の跳躍が必要になります。

 その跳躍に楽しみ以上の何か・・・・・・・・があるのかもしれません。ただし、過去には時に準備もないまま「書く」ことができました。そうした奇跡は、もはや私には訪れてくれないようです。今のところ、いつこの断絶を飛び越えられるのか不明です。

 小説をどんな形で書くのか、どうやって発表するのか、何も決めていません。予定しているのは、元からのブログ「レワニワ書房通信」に小説制作の経過を書くこと。noteに別アカウントを作って、制作中の小説の一部を、断片的に(とはいえある程度まとまった形で)掲載すること。その二つだけです。この予告が実現できるように努めます。

 これにて、「はるかな昔」は本当にお開きです。
 ご支援、ご静聴くださった皆様に感謝します。


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