統一原理とは何か 原理における世界観の階層構造について

今回の試みは世界観について
統一原理的にといっているが一般的にも言えることと思える

まず世界というのが何と考えるのか
それについて考えていきたい
世界を認識する上での特徴といっていいのか

大きくわけて現実階層と精神階層がある
これは原理の言葉でいうと霊界と肉界となる

現実階層における構造


一般的にいう世界は現象としてあらわれた国やら人などで構成されている現実世界といっていいがこれは現実階層と呼ぶ

現実階層の特徴は人間の理性で認識され論理的な記述がされる内容を根拠とした世界となっているため言語化されなかったり感性的に理解できないものは存在していても無視される場合もある

またそれは人によって認識領域が異なるため一部の人にしか認識されない領域もあるはずだこれを主観的現実階層と呼ぶこれに反して多くの人に共有されている客観的現実階層があることだろうただしこれも実は人の認識の壁はいろいろあって年齢的なものや文化的なものなので区切られていくため客観的現実階層は多岐に及ぶ

現実階層
 客観的現実階層

例 アジア的価値観の上で解釈された共有現実による
民族主義的な価値観によって解釈されたもの
 主観的現実階層
例 集合的無意識を考慮にいれたもの 神の実在を考慮にしれたもの

主観的現実階層は実はさらに深い精神的階層に踏む混むその手助けとなる場合があるしかし主観的であるということの意味はその内容がその主観を持てる人にしかわからないという難点がある

客観的現実階層がどうしても深い精神的階層に助けになりづらいのはそれはある意味主観的より多くの人の共有されようとするため論点や注目点がぼけたり広くなったりするためさらに深い階層を意識しづらいということがある


精神階層とは何かそれは人情などが含まれないものともいえる

まずもって確認したいのは人の心の作用そのものを精神作用というわけではないそれも作用なのだがキリスト教における肉の思いと霊の思いという区分での霊を精神として規定して使うのである

だから人情とか感情とかそれはそれだけで精神ではない精神になるには霊の思いが込められたある目的を持った概念が伴っていないといけない
その当たりが実はまずもって宗教的やら精神的などのことを勘違いしてしまう要素になってしまう

ただしキリスト教的な精神つまり霊の思いというものがはっきり表現されない宗教形態ももちろんあるそこに優劣があるわけではないが深い浅いということはあるだろう

深ければ優等なのと言えそうだが宗教的価値は善と悪を追求するものなので浅くても善に向かっていればそちらの方が優等なのである

聖書にこの小さきものにと信仰者を小さきものと例えたり幼子のようにと例えたりする部分があるがそれらはこの目的に向かっているのであれば小さかったり幼かったりすることが問題ではないという例とも捉えられる

それらを総合して精神的な階層というものの特徴をとらえることがある意味宗教的な性質を深める上で必要なことであるため精神的ということをいかに認識できるのかが重要となるのである

信仰において人情というものが阻害される傾向があるがそれはそれを否定しているわけではなくただその深い内容が人に感動を与えたり人をいやしたりするがしかしながら人を罪から解放する一番必要な要素ではないためにそれを阻害するのであって別に意地悪ではない

この問題はまた触れるとして精神階層における構造を簡単に述べていこう

精神階層の構造

精神階層にはまず可知階層と不可知階層がある
これは哲学者のカントが記述したプリオリとアプリオリに近い区分けだがカントの用語の場合は別に現実階層に属することもプリオリと言えなくはないため精神階層の可知階層をプリオリと同一といえないところはある

とりあえずこの二つの用語でわけていくこととする

可知階層というのは宗教的な教えの部分で倫理的や戒律的な教えがここに含まれるまた人の構造としての人が認識可能な精神という部分もこれに含められることだろう

例えば認識可能の精神とは何かというとそれは人が究極的な目的に出会いたがってそれに向かっている心の中心を持っているというようなものなどであるそれは精神の中にあるものだろうし現実生きていく現実階層で意識されなくても生活に支障がなかったりするものとも言える

宗教の用語でいうとこの可知階層は先ほど述べたように倫理や戒律などであるがさらにいうとそこには悟りというのも含まれるすでに人が受け取れた内示なのであるから可知階層ではある

しかしここに先に同じく客観的と主観的などの構造はあるはずだがそれはここでは省くこととする

問題は不可知領域とは何かということなのだが不可知領域とはいえそもそも人間が認識の主体となって認識できることをここではさすなので実はこの先には人が主体とならない階層もあるある意味宗教の奥義はそこに属するものといっていいし信仰というものはそこに入る

ここでこの精神階層までは理性的認識で言語化などがかなり容易なものとなっているがこの先の対象階層と呼ぶべき領域では人はそもそも多くは不可知である内容の中に自己の存在の中心いわゆる実存を置くのである

この感覚が説明がしづらくそして理解も霊的な体験をもとに発想しないとわかりづらいこれらは導きとか黙示とか啓示とかさらには預言などと言われるものである

よくいわれる予言とここでいう預言は少し性質をことにするので注意されたい

精神階層はこのように最終的には対象階層にまで踏み込んでいく
それは単純には信仰の領域でつまり私という人間そのものが出発でもないしさらには存在の全てでもない

この階層を意識した意味で例えばエゴイズムを解釈するとそれは人を中心として人の存在だけの世界観そのものは全てエゴイズムとなりエゴイズムとならないためには不可知領域に属する何かそして根源の中心である何かに対象的な立場で存在を成立させないといけないのである

つまりそれは信仰の芽生えみたいなものでそれなくして信仰は成立しえない
もちろんキリスト教においてはさらに狭い条件がつくのだが

統一原理における精神階層の説明

統一原理における説明は単純である
現実そして可知領域に属するものはすべて肉界のものとされる
精神の一部分も肉界といってもいいが精神領域の一部が礎となって
霊界における人の存在の一部にもなる精神領域の可知領域の部分は肉界に属するものではあるがそれは精神の不可知領域へと人を誘るものである

ある意味橋渡しの役割をするのである

なので原理では現実世界は肉界という規定になるがただ勘違いしないでほしいのは肉界だとしてもいわゆる善に向かっているものは本質的なのである肉界が程度が精神界より低いというわけではない具体的なだけであってそこに優劣はない

先にもいったら優劣は善に向かっているのか悪に向かっているのかで判断される

例えばお金そのものは悪ではないがお金に囚われて人生見失うのは悪であるといえるしかしお金に囚われないでお金を使えばそれは善であるが例えば豪華にしないで食事のための食材を買うことは現実階層での行動になるのだがそれだけで悪とは規定できないのでその行動は人間存在としては中立ぐらいのものであるしまた貧しい人に施しをするために買うのであれは中立を超えて善にもなることだろう

しかし豪華絢爛にしたいために高級レストランで食事をしたり見栄を張ったりすることを目的として食材を買うなりそこで食事するなどしたらそれはあきらかに中立を超えて悪となる

ここで注意したいのは贅沢が悪となるのではなくてそこにおける心がどういうものなのかで実は善と悪が定義される要素になるということである




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